誰にも分かりやすい 《土と肥料と微生物》 の話です

ぶらり 昔おおいた

ぶらり 昔おおいた

ちょっと昔のおおいたを、南大分中心に編集しました。ウォーキングやサイクリングに、ぶらりと街歩きに参考にしてね!

●豊府の歴史

豊府は古くからの歴史的地名。律令時代には豊後国の国府が置かれ、鎌倉時代の中頃まで約500年間豊後国の政治・経済・文化の中心でした。往時、古国府から羽屋にかけては大分川の河口で海が広がり自然の良港を背景に、古国府には金剛宝戒寺・岩屋寺・印鑰社・祇園社が、上野の丘陵突端部(龍ケ鼻)の崖下には元町石仏・岩屋寺石仏が彫られ、南太平寺から永興にかけて太平寺・永興寺・清水寺などが立ち並ぶ、一大仏教文化の拠点でした。

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大分川の下流は、平安時代には七瀬川合流点付近より右に寄り、滝尾曲~碇山の間を流れ津守を貫いて下郡付近に流れ込んでいました。鎌倉時代になると奥田より左寄りに流路を変え、奥田~古国府を貫けて元町付近に流れ込んでいました。鎌倉から江戸時代にかけて元町~長浜~住吉川に至る流路は大川であったらしく、その後、元町からまっすぐ海へ流れこむ現在の流路を形成したようです。 (国土交通省HPより)

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伊能忠敬の測量図 江戸時代後期1810年、現代の川の流れとビミョーに違います

旧大分川は元町付近からやや西寄りに入り(現在花園付近で小さな用水路になっていますが‥)浄水場~豊府高校~東日本木材市場~南大分スポーツ公園~南大分公民館~南大分消防署~視聴覚センター付近を流れていたようです。間違ってたらごめんなさい。また花園のHonda Cars・国道10号線・墓地の辺りに旧大友館があったらしく、大分川が大きく蛇行し東南西が川に面する眺めの良い場所だったでしょう。

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羽屋付近 旧大分川との段差でしょうか?

百合若大臣伝説

百合若は子供の頃から大変な力持ちで、体も人一倍大きく勇気ある子供であった。十七歳で早くも大臣になり、百合若大臣と呼ばれるようになった。やがて豊後の国の国司になり、国を治めるようになった。この頃になると、長さ八尺五寸(約3m)の鉄の弓を軽々と引くほど国一番の弓の名人として、その名を轟かせるようになっていた。

1270~1280年代に日本と蒙古(モンゴル)との間に戦さが起こった。「無事にお帰りになるまでは、どんな時でも決して油断なさりませぬように。」という妻の春日姫の優しい言葉に見送られて、百合若は千人ばかりの兵を連れて船に乗り、博多の港を船出した。

両軍の激しい戦いは、対馬の沖で始まった。敵は、四万艘の船をもって攻めてきた。百合若は、長さ八尺五寸の鉄の弓に、三尺六寸(約1,2m)の矢を数百本持ち、船の先頭に立って進んだ。百合若の軍は、別府太郎・次郎の兄弟の指揮の元に小船を繰り出し、体当たりでぶつかって行った。百合若は得意の弓で敵を散々苦しめたが、数百倍の敵の船と兵隊の数に押されて、勝負はなかなかつかなかった。両軍とも、殆どの軍船が船べりを破られ、帆柱は傾き、散々な有様だった。

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死んだ者、怪我をした者も大変な数になった。それでも戦いは続けられた。日暮れになっても、まだ勝負はつかなかった。両軍とも戦い疲れた。戦い続けるには、あまりにも損害が大きかった。両軍とも、軍を立て直す為に国へ引き返すことにした。百合若軍は途中、玄海島へ船を着けて休んだ。島に上がると、兵士たちは疲れがどっと出て、鎧を付けたまま深い眠りに落ちていった。百合若も戦いの疲れと気の緩みから、そのまま前後不覚に眠り込んでしまった。

 別府兄弟の謀反

あまりの静けさに、百合若はふっと目を覚ました。日はすでに高く昇っていた。周りを見ると誰もいない。百合若は、自分ひとりだけ島におき去りにされたことに気づいた。「謀られたか!」 百合若は呻いた。かねてから百合若の名声を妬み、いつかは自分が豊後の国司にとってかわる野心を持っていた家来の別府兄弟が、悪巧みを謀ったのだった。二人は、百合若がぐっすり寝込んでいるのをいいことに、その鎧、兜、自慢の弓を奪い、朝早く島を抜け出してしまったのだ。百合若は島の岬に走った。見ると遥か彼方の海の上を、別府兄弟の乗った船と軍船が、帆に風を張らんで滑るように走っていた。

「待てえっ。この俺を置いて行くつもりかあっ!」百合若は声を限りに叫んだ。しかし、船はやがて小さくなり、百合若の視界から消えていった。百合若はぎりぎりと歯を噛んだ。が、もうどうする事も出来ない。「おのれ! よくも俺を裏切ったな。」百合若の顔は、怒りと憎しみで青ざめ、体はぶるぶると震えた。百合若は、岬の岩の上にうずくまった。それからというもの、百合若はたった一人離れ島で、その日その日をやっと生きながらえるだけの魚や海草を獲って暮らすようになった。

日が沈む頃になると、百合若は決まって岬の崖の上に立った。この海が遠い故郷に繋がっているのかと思うと、国に残してきた春日姫のことが思われてならなかった。「姫よ! 俺はいつかきっと帰るぞ。必ずお前の所へ戻ってみせるぞ!」百合若は、海に向かってそう叫んだ。

別府兄弟は自分の国に帰り着くと、百合若が戦死したと偽り、兄の太郎が豊後の国司に収まった。二人はその日から贅沢の限りを尽くし、民百姓から厳しく税を取り立てるようになった。春日姫は夫が戦死したという知らせを受けてからというもの、悲しみのあまり食事も喉を通らないほどやつれてしまった。

 二人を結んだ緑丸

ある日、姫は百合若が可愛がっていた32羽の鷹と12匹の犬を解き放った。そのうち緑丸と名づけた鷹だけは、どうしても逃げようとしなかった。餌を与えても、ちょっと口を付けるだけでどうしても食べようとしない。そこで、握り飯を与えてみた。すると、緑丸はそれをくわえるが早いか、北へ向かってさっと飛び立った。その頃、百合若は僅かばかりの魚や海草で命を繋いでいた。その内、海草も木の実も食べつくし、その日の食べ物にも困るほどになっていた。沖を通る船もなく、体は次第に痩せ衰えていった。そんな時、ふと百合若の目に黒い影が走った。その影は、浜辺の大きな岩にとまった。

「おおっ、お前は!」それは、春日姫に与えられた握り飯をくわえて来た緑丸であった。百合若は大声を上げると、緑丸の側に走り寄った。緑丸は懐かしい主人の声に羽を叩き、肩に飛び乗り、身をすり寄せてきた。懐かしさに百合若は涙を流した。せめて生きていることを姫に伝えることは出来ないものか、緑丸をぎゅっと抱きしめながら、百合若は考えた。そして何を思ったか、百合若は不意に自分の指の肉を食い破った。指の先から血がしたたった。百合若は木の葉をとると、したたる血で文字をしたためた。それを緑丸の足に括りつけた。緑丸はひと声上げると、さっと飛びたった。

 蒋ヶ池に沈んだ万寿姫

「百合若さまは、やはりご無事でいらしたか‥」血の手紙を読み、夫の元気なことを知った春日姫の顔にさっと赤味がさした。すぐに姫は緑丸の首に手紙、筆、硯をくくりつけ、空へ放った。緑丸は、またもや玄海島めがけて飛んで行った。けれども、もうすぐ玄海島という所で、疲れと硯の重さの為に力尽きて海に落ちてしまった。緑丸は、再び春日姫の元に戻ることはなかった。

その間にも、別府兄弟の政治は益々目に余るものになってきた。思い上がった兄の太郎は、とうとう春日姫に自分の妻になるように言い寄ってきた。「いつまで待っても、百合若殿は帰って来はしない。いいかげんに諦めたらどうじゃ?」「百合若様はきっとどこかで生きています。夫はどんなことがあっても必ず帰ってきます。無事お帰りになるまで、わたしはいつまでも待ち続けます。」「何を言うか。わしは今では九ヶ国の国司じゃ。わしに逆らう者は、誰でも見せしめの為に殺してやる。忠太、春日姫を今すぐ蒋ヶ池に沈めてしまえ!」

別府太郎は、家来の忠太に命令した。忠太は躊躇った。主人の命令とはいえ、春日姫はかつての主のお后である。かと言って、太郎の命令に背いては自分の身が危ない。考えに考えたあげく、娘の万寿姫によく言い聞かせて春日姫の身代わりとして、蒋ヶ池〔まこもがいけ〕に身投げさせた。

 帰ってきた百合若大臣

それから二年の月日が経った。豊後の国に、髪の毛は茫茫と伸び放題、顔じゅう髭だらけ、顔や手足は垢でまっ黒な男が一人やって来た。百合若であった。百合若は強い風のため玄海島に流されてきた壱岐島の漁船に、運よく助けられたのだった。このみすぼらしい男がかつての国司、百合若大臣とは誰一人気付く者はなかった。

「無人島で生けどった珍しい鬼じゃ。」百合若の噂が国中にすぐ広まった。鬼を見ようと百合若の周りには一日中、人だかりがした。「鬼か‥ そうじゃ、わしは鬼じゃ。鬼になって別府兄弟を滅ぼしてやるのだ!」 心の中でそう言い聞かせて、百合若は人々の嘲りをじっと我慢した。

別府兄弟もすぐに噂を聞きつけ、男を古国府の館へ連れて来させた。「なるほど鬼みたいな奴じゃ。とても人間とは思えぬ。こけ丸と名づけて見世物にするのじゃ。しばらく館で賄ってやるがよい。」兄弟は百合若とは知らず、面白半分に申しつけた。こけ丸と名づけられた百合若は、こうして別府兄弟の館へ潜り込み、復讐の機会が訪れるのを待った。

翌年の正月七日のことである。国司の館では、いつもの弓始めの行事が行われた。こけ丸の百合若も見ることを許された。行事は進んで最後に、別府太郎次郎の兄弟が馬に乗って場内を走り回り、的を目がけて矢を立て続けに放っていた時である。どこからともなく大きな声がして、「それ、左に外れているぞ。」「今度は右に切れたぞ。」と、叫ぶ者がいた。事実、射られた矢はどれもその通り、的を外れていた。兄弟は顔を真っ赤にして声の主を引きずり出した。それはこけ丸だった。

太郎が刀の柄に手をやり、今にもこけ丸を切ろうとした時、次郎が言った。「兄上、ちょっとお待ちください。このように言う所を見ると、このこけ丸も多少弓の心得があるものと思えます。試しにちょっとやらせてみてはいかがです。殺すのはそれからでも遅くはないでしょう。」ふんと言って、太郎は持っていた弓矢をこけ丸に投げ与えた。すると、こけ丸は「何だ、子供用の弓が役に立つか。」と言うと、ぽきぽきとへし折ってしまった。

「下郎のくせに無礼な奴め、この弓ではどうだ。」と、今度は次郎が玄海島から盗んで帰った百合若愛用の弓を渡した。こけ丸はその弓を手にするやいなや、「別府兄弟を始め、皆の者、ようく聞け! 我こそは、お前たちの主、百合若なるぞ!」と、大声を上げた。百合若は、満月のように弓を引き絞ると、太郎の胸にぴたりと狙いを定めた。兄弟の顔色がさっと変わった。二人は手綱を引き絞って、馬の方向を変えようとした。その拍子に馬は棒立ちになって、二人は同時に大地に叩きつけられた。

主を失った二頭の馬は、館の外に向かって駆け始めた。太郎、次郎も血相を変えて館の門に向かって駆けた。門の所で追いついた二人は馬に飛び乗ると、右と左に分かれて逃げ去った。百合若も馬に飛び乗ると、まず太郎を追って矢取りの坂を駆け上った。太郎は、坂の遥か下を駆けていた。

坂の上で馬を停めると、百合若は弓をきりりと引き絞り、ひょうと放った。矢は別府の石垣原まで逃げ延びた太郎の背中に、ぶすりと突き刺さった。百合若の矢は、ものの見事に太郎の体の真中を貫いていた。太郎が馬から落ちるのを見届けると、こんどは次郎を追った。追って追って、とうとう日出荘井出村で捕まえ、次郎の首を刎ねた。こうして別府兄弟を倒した百合若は、また元の国司として認められ、妻の春日姫と幸せな日々を送ったという。

(編著者 大分県小学校教育研究会国語部会)
(出版権者 株式会社日本標準)

百合若大臣ものがたり
 http://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1034731272112/

●万寿寺

1306年、5代大友貞親(さだちか)が創建。当時は禅寺五山十刹の一つとして寺は隆盛したが、1586年島津氏の兵火に焼かれ、一時廃寺となる。1633年府内藩主竹中重義が再興した。寺は伝説の勇者百合若大臣の創建ともいわれ、これにまつわる民話が残っている。

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元町の蒋ヶ池跡

百合若大臣が豊後の国司であった時、大臣に反逆を企てる者がいて、大臣の外征中、お妃を殺そうとしましたが、万寿姫という家来の娘がお妃の身代わりになって蒋ヶ池〔まこもがいけ〕に沈められました。後に外征先から戻った百合若大臣が反逆者を成敗し、万寿姫を弔って建てたのが『万寿寺』だと言われています。

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万寿寺蔵 白隠禅師筆 達磨  縦1,92m x 横1,12m とはデカイですな! 
寺の修行僧がこの達磨の耳にイアリングを付けて、こっぴどく叱られたと言う話を聞きました。私だってこのとぼけた顔を見てるとね、つい‥ 楽しい話だと思いましたけど… え?そんな問題じゃない? こりゃまた、失礼いたしました!

You Tube 万寿寺 
 https://www.youtube.com/watch?v=qkpMw-xFb7s

●大臣塚

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県立芸術文化短期大学の東側に、大臣塚と呼ばれる前方後円墳(全長約50m、後円部が直径約35m、高さ約13m)がある。 大臣塚という名称は、地元に伝わる百合若大臣の伝説によってつけられました。

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尼ケ城と尼ケ瀬の伝説

昔、源為朝が九州征伐のため豊後に下り、稙田の雄城台に城を築いた。伴ってきた母を永興の上に居館を築き、住まわせた。これを尼ケ城と呼んだ。為朝はよく川を渡って母のご機嫌伺いに訪れた。母もまた、川を渡って雄城台に為朝を訪ねて慰めの言葉をかけた。人々は、母が渡った瀬を尼ケ瀬、為朝が渡った瀬を宮ケ瀬と言い伝えた。

You Tube 尼ケ城  (大分市南大分公民館 史跡巡り)
 https://www.youtube.com/watch?v=HykuouFjRG4

●宮ケ瀬の渡し

明治18年明磧(あけがわら)に土橋が架橋されるまで旧街道は、畑中(宮ケ瀬)からと明碩(奥田)の2地点より川向かいの宗方に渡り、雄城台の東側を回って熊本(肥後)へ通じていました。1658年の記録によると渡しは板橋渡し船が利用され、板橋は増水時には板木を取り込んで渡し船で往来し、平常水位になると再び板を張っていました。昭和5年アーチ式の明磧橋が完成し、大道の堀切峠から明磧までの新道が出来ると、宮ケ瀬の渡しの役目は終わりました。

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肥後の加藤清正や細川のお殿様は参勤交代道として、熊本➡大津(1泊)➡内牧(2泊)➡久住(3泊)➡今市➡野津原(4泊)➡鶴崎(5泊)を通り、鶴崎から船で瀬戸内海を渡って大阪➡東海道➡江戸に向かいました。ちなみにこの街道を熊本側では『豊後街道』と呼び、大分側では『肥後街道』と言います。

大蛇伝説       『平家物語』第八巻 緒環(おだまき)

昔、豊後国緒方郷にいた緒方三郎惟栄という者は、おそろしき者の末裔なり。と申すは、豊後国の或る片山里に、住む夫をもたない独り身の娘がいた。ところがいつの頃からか、素性の知れぬ不思議な男が夜な夜な娘のもとに通いつめ、やがて娘が身ごもったため、母が不審に思い娘に問い尋ねると、娘は「男の来る時には私の目にも見えるが、帰る時は何も見えない」と語った。

そこで母は娘に男が帰る時、針で緒環(おだまき)を通して、そっと男の襟に刺しなさい、と教えた。娘はその夜、母の教えどおり、男の襟に針を刺した。男が何も知らずに帰った跡を辿ると、日向国の境にそびえる嫗岳(うばだけ)の大きな岩屋の中に糸が続いていた。

岩屋の奥では一種異様な唸る声がしていたので、岩屋の前に立った娘は「一度、お姿をお見せ下さい」と言うと、奥から「わしは人間ではない。見ない方が良いだろう」と、答えが返ってきた。それでも娘は「見たい」と重ねて求めると、声の主が奥から初めて姿を見せた。それは嫗岳の主と思われる巨大な大蛇で、針が喉笛に突き刺さっていた。苦しい息の中から大蛇は、「お前のはらめる子は男なるぞ、弓矢打物を取らせば、九州九国二島に並ぷ者はあるまい」と告げた。

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間もなく娘は、大蛇の予言どおり男子を産んだ。男の子は偉丈夫で、母方の祖父大太夫は自分の名に因み、大太と名づけた。大太は夏冬にも手足にアカギレができたので、アカギレ大太と呼ぱれた。死んだ大蛇は、高千穂大明神だったという。惟栄は,この大太の五代の孫であるという。このように恐ろしい者の末裔なので,九州の武士たちはみな惟栄に従ったという。

三郎プロジェクト 
 http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/saburo-frame.htm

●緒方三郎惟栄(これよし)  (1143年~1195年)

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源平争乱期の武将。豊後国大野荘緒方郷を拠点として活躍した。緒方三郎惟栄は「大蛇の末裔」と呼ばれ、豊後の国を中心に九州一円に名を轟かせていた。惟栄は平氏の御家人であったが、平氏の専横を憎み九州武士団を率いて、大宰府に落ちてきた平氏を九州から追い落とし,平氏滅亡の端緒を開いた。

源範頼が壇ノ浦にいる平氏を追って周防まで来て、船もなく兵糧も尽き進退窮まった時,兵船82艘を献上し,壇ノ浦合戦に大いに貢献した。義経が頼朝から追われることになると,義経を連れて九州に渡ろうとするが,途中で嵐に遭い、船は難破し義経は奥州へ逃げる。惟栄は捕まり、群馬県沼田荘に流された。豊後を支配していた惟栄ら大神一族は、大友一族にとって代わられた。

●三角畠(みすみばたけ)の変

1425年古国府(現在のセブンイレブン古国府店付近か?)で起きた大友一族の内紛。大友親世(10代)は家督を兄の氏継の長子親著(11代)に譲り、親著は親世の子持直(12代)に譲った。ちょっとややこしい話ですが‥ これを不服とした親世の長子孝親が反乱を起こしたが失敗し、三角畠で戦死。江戸時代、この辺りの畑から多くの人骨が出たという記録がある。

●大友宗麟   (1530年~1587年)

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大友義鎮(よししげ)21代当主、法号は宗麟。1530年大友義鑑(よしあき)の嫡男として生まれる。海外貿易で得た経済力とすぐれた家臣の補佐により、戦国時代九州随一の勢力を誇った。キリシタン大名としても有名だが、耳川の合戦を皮切りに次々と領地を失い、晩年は秀吉傘下の一大名として終わった。

You Tube 南蛮文化を開花させた 大友宗麟
 https://www.youtube.com/watch?v=-77EtMgs5EE

☆ 自領を没落に導いた男 大友宗麟    泉 秀樹
 https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/10116-06.html

●鶴崎踊り 

時に明君であり、時に暗君であった大友宗麟。毎年数万人の見物客を集める鶴崎踊り(国選択無形民俗文化財)は、実は宗麟の女遊びが原因だったそうです。1560年頃宗麟は美女集めに夢中になり、政治を省みなくなった。重臣立花道雪が諫めようとしたが、気配を察知した宗麟は警戒して顔を合わせようとしない。一計を案じた道雪は、京から美しい舞子を大勢呼び寄せ、自分の館で踊らせた。噂を聞きつけた宗麟が道雪と舞子を城に招くと、道雪はその機を逃さずようやく諌言に成功したという。その時の踊りが「左衛門」のルーツとされています。ちょっとカッコワルイね!

You Tube 鶴崎踊り
https://www.youtube.com/watch?v=8WrJxw58-Pk

慶長豊後地震

今から約420年前、宗麟没後9年の1596年9月。わずか5日の間に九州・四国・近畿地方で連続して大地震が発生しました。

9月1日 慶長伊予地震(M7推定)
9月4日 慶長豊後地震(M7推定)
9月5日 慶長伏見地震(M7,25~7,75推定)

慶長豊後地震の翌9月5日の真夜中。近畿地方でも慶長伏見地震が発生、完成直後の伏見城が倒壊した。秀吉は明国の使者を迎えるため、大勢の兵士と美女たちを集めていました。そこを地震(M7,25~7,75推定)が襲い、秀吉は裸で飛び起き、幼い秀頼を抱き上げて命からがら屋外へ逃げ出した。城内の圧死者数百人、京都市中では45,000人もの死者がありました。 (地震雑纂)より

瓜生島の沈島伝説

 http://www.ailab7.com/uryuu.html

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1857年に描かれた「豊陽古事談」の瓜生島の古地図

当時は、大分から別府に行くには島伝いに行くか高崎山を峠越えするかで、現在の海岸沿いの道(国道10号線)は、狭くて危険な道だったようです。島が津波に襲われた様子は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがローマのイエズス会に送った報告書にも記述されています。

その昔、豊後湾には瓜生島(別名沖の浜島)、大久光島、小久光島、東住吉島、松島などの島々があり、なかでも瓜生島は東西36丁南北21丁余あり、古代から栄えた島でした。
室町時代になると、島は豊後一の貿易港として外国からの入船で賑わったと言います。当時は12ケ村戸数千戸を数え、島長の館を中心に三条の大通りが走り、南を本町、中央部を東町、北を新町と称し、府内から瓜生島・久光島を通って別府へ抜ける交通路が開けていました。

島長の幸松勝忠は大変信仰心が厚く、島には威徳寺、阿含寺、住吉神社、菅神杜、蛭子社などの寺社が立ち並んでいました。1595年には阿弥陀寺を建立することになり、南部の僧都行恵が、島へ勧進に参りました。

島には、古老たちによって古くからの言い伝えが残っていました。それは『瓜生島に住む者は仲良くしなくてはならぬ。一人でも仲違いをする者があれば、島中の神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。その現れとして、蛭子杜の神将の顔が真赤になる』というのです。

1596年年6月下旬のことです。島の南西端の申引村(さからすむら)に住む加藤良斎という医者が、『そんな言い伝えなど気にすることはない。天変地異など実際に起こる筈がない。おれが試してやろう。』と、蛭子社に奉祀してある十二神将の顔を丹粉(にふん)で真赤に塗りつぶしてしまいました。

島の人々はそれを見て、「大変なことをしてしまったものだ。何か異変が起こらねばよいが‥」と、気をもんでおりますと、果たしてその翌月(改元慶長元年六月)の始め、地震があり、続いて16日、17日にも日に数回地震がありました。「正しく神の怒りの前兆だ。」と、気の早い島民数十名は、荏隈に逃れ始めました。1ケ月経った閨7月にも、4日、5日と立て続けに地震が起こり、さらに11,12日と続いて午後2時頃になると、島は激しく揺れ始め、高野山・由布岳・霊山などの山々が一度に火を噴き、大きな石が空から降って来ました。

人々は慌てふためき、島から逃れようと荷物をまとめておりますと、午後四時頃になって一時静かになりました。その時、白馬にまたがった一人の老人が、島中に『瓜生島は、沈んでしまうぞ、一刻も速く避難せよ!」と大声で宣れ回りました。島の人々は皆我先にと、舟に乗ったり泳いだりして、府内や日出の町目指して逃げて行きました。この老人は、神の化身だったと言われます。老人の予告通り、一刻ほど後に大地震が起こり、ものすごい高潮が島を襲いました。

島長の勝忠も、息子の信重を伴って小舟に乗り、生命からがら逃げのびました。しかし、海上は波が荒く、小舟は忽ち波にさらわれ、二人は海中に投げ出されました。勝忠は、信重の手を固く握ったまま波にもまれていました。大量の水をのんだため、意識がもうろうとしています。その時、夢ともなくうつつともなく、大空から声がして、一本の竹が差し出されました。勝忠は夢中でその竹にしがみ付きましたが、それっきり波を被って気を失ってしまい、気がついた時には二人とも加似倉山の麓に打ち上げられていました。

一夜明けて、地変は治まりましたが、海上には島影一つなくなっていました。瞬時のうちに沈下してしまったのです。生き残った者はわずかに7人。行方不明者数知れず、溺死者は700余人といわれます。」

You Tube 瓜生島とえびすさま
 https://www.youtube.com/watch?v=3WaQlJaivYE

You Tube 慶長豊後地震   平井義人氏講演会
 https://www.youtube.com/watch?v=K2onLP3lsAM 

初瀬ものがたり

昔、挾間村は大変貧乏でした。と言うのも、お米の出来具合が悪かったからです。日頃お百姓が食べるものは粟・稗・豆 ばかりで、米の御飯はめったに食べられませんでした。たまに米を炊く時は、麦のたくさん入った色の黒い御飯ばかりです。挾間の村に米が沢山出来ないのは、米作りに必要な水がないからでした。田植えをしても、夏に日照りが続くと、水田がカラカラに乾いてひび割れ、稲が枯れてしまう事が度々ありました。

慶安2年の日照りは、特にひどいものでした。「うちん稲が、水がのうて枯れてしまう。水を流しちくりい」「おまえんとこは昨日入れたじゃねえか」「そげんこと言うてん、ちっとしか入れんじゃった」「なに言うか、もうおまえ方、今日は入れんでいい!」「こんちくしょう、これでもくらえ!」と殴りかかり、とうとう喧嘩になってしまうこともありました。

その頃の挾間の庄屋は、下市の二宮善左衛門、上市の二宮久兵衛、鶴田の三河尻六左衛門などでした。「庄屋さん、どうか水路を造って、水がたくさん流れるようにしてください」「水路を造るというのはとても難しいことだが、殿様にお願いしてみよう」                

当時の府内の殿様は、日根野吉明というたいへん情け深い人でした。早速、庄屋たちは、府内城に行きました。殿様は「水路を造れば米もたくさん出来ることだし、良いだろう」と言って、大山・清水という工事の奉行も2人決めてくれました。今から350年ほど前のことでした。          ’

大分川の鬼瀬から水を取り始めて、現在の挾間中学校の北側まで来る所で、深い谷になっている黒川を渡さなければなりません。多人数かかって、やっと出来上がりそうになると大雨が降り、どっと土手が崩れてしまいました。再び造ると、また崩れてしまい、どうしても出来あがりません。「おかしい、どうもおかしい。なんでこんなに崩れるんか?」「お祓いでん、上げちもらわんと‥」「うむ、古野の妙蓮寺の陰陽師に頼もう」「そうだ、お祓いを上げてもらえばきっと崩れんごとなるぞ!」 

「なむさまんだあ、とうえんぎゃあ、ぎゃあてぎゃてえ、はらそうぎゃてえ‥」 長いお経を上げ終えた陰陽師が、集まった村の代表に言いました。「ずいぶん強い霊が溜まっている。霊に捧げものをせねばならん」村人たちは驚いて尋ねました。「さ、捧げものとは何ですか?」「人柱を立てねばならん、さもなくば水路は出来上がらんだろう」と、陰陽師が静かに言いました。               

ではその人柱に、誰になってもらうのか!? 村人は何日も考えましたが、思い浮かびません。最後に陰陽師と庄屋さんが相談して、「縦じまの着物に横じまの伏せ布を当てて着ちょる子がおったら、そん子になっち貰おう」と決めてしまったのです。大変な事になりました。 

中村・上市・下市の村人は、「縦じまの着物に横じまの伏せ布を当てている娘」を探しはじめました。そして、ついに縦じまの着物に横じまの伏せ布を当てている、お初という可愛らしい娘を見つけ出したのです。        ’
 
「お初の家に、誰が頼みに行くのか?」「そんなことを言うちょっても、時間が経つばかりじゃ」「そんくらい俺でも分かっちょる。けど、可愛そうで頼みに行けるか!」話がまとまらず、最後には「可愛そうじゃが、皆の為になることじゃ。お前たち組頭役じ、行ってこい」と庄屋さんが言いました。

「お光さん、この通りじゃ。村のためと思うて何とか考えてくれんじゃろうか?」「お初、済まんが皆の為じゃ。人柱になってくれ」「ああ‥、どうして‥!」あまりに突然の話に、母お光は泣き崩れました。       
 
お初の家は、お父さんが前の年に亡くなり、大変貧乏でしたが、働き者のお初と小さな弟や妹たちが助け合って、幸せに暮らしていました。何で、お初に人柱などになってくれと言うのでしょうか? 初めは反対していたお光やお初でしたが、最後には仕方なく、泣く泣く人柱になることを承知してしまいました。

いよいよ人柱になる日、村人はその場所である上市の土手には、誰も行けませんでした。あまりにもお初が可愛そうだからです。やがて大きな穴が掘られ、お寺のお坊さんの読経と共にお初は人柱としていけられました。工事をする人々は、一生懸命お初の土手に土を掛けました。お坊さんの、お経を読む声だけがしっかりと響いて暗い空気が流れ、やがてお初の入れられた穴が塞がれました。誰もが泣きました。声を上げて泣いていました。   

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その日から、工事の多くの人々が、必死で土手を造りました。お初の命を無駄にしないように、しっかりとした工事をしようと、心を一つにして頑張りました。工事は進み、やがて土手が出来上がりました。それ以後、土手が崩れることはありませんでした。お初の名をつけた「初瀬井路」工事は、その後着々と進み、1650年(慶安3年)に、鬼瀬から大分市の東院(とい)まで、水路が出来上がりました。

挾間中学校北側の道路が、人柱の立った土手です。現在でも、お初の霊を慰めるための「おせがき」という行事が、お盆に行われています。                  

初瀬ものがたり (挟間町 WEB紙芝居)
 http://www3.coara.or.jp/~ichio/webcomic/hatsusestory/hatsuse.html

You Tube 初瀬井路   (大分市南大分公民館 史跡巡り)
 https://www.youtube.com/watch?v=cTNrlz3Hg3U

幾ひさし 吉明けし 初瀬川 流れを受けて民も栄えん
  初瀬井路が出来上がった時に、日根野吉明公が詠んだ歌

●初瀬疏水

初瀬疏水は、大分県でも古い歴史をもち、干ばつに辛苦する民を哀れみ、時の城主が開削した疏水である。現在の疏水は、3回に渡って開削されている。
第一回目は「国井出」として、1583年(天正11年)大友義統公により大分市宮苑より大分市大字生石まで大石の間、約13kmが開かれた。
第二回目は「初瀬川」として、1650年(慶安3年)日根野吉明公により庄内町大字櫟木より大分市東院までの間、約16kmが開削された。
第三回目は「新井路」として、1694年(元禄7年)松平昭重公により挾間町大字向原より東院までの間、約7kmが開削された。
この3つの水路を併せて「初瀬疏水」と呼ぶようになった。

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中でも初瀬川は、完成までに延べ人数93,302人、延長139町56間とある。驚くことは、これに要した日数が46日と短いことである。これは各区別に請負区域が割り当てられ、必至の競争が展開されたと言われる。

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山弥長者伝説

今からおよそ三百年ほど前、大分の萩原に山弥之助氏定という商人が住んでいた。山弥は、生姜とふるいを担いで、竹田地方に売りに行っていた。ある日、仲間と二人で商いをしての帰り道、日向と豊後の境近くの十六山の麓でひと休みした。連れの男は、暖かい春の日いっぱいの草原にひっくり返ると、商いの疲れからさも気持ち良さそうに眠り始めた。山弥も男と並んで寝転がり、周りの山肌や白い雲をぼんやり眺めていた。

ふと男の方に目をやると、一匹の蜂が男の鼻の所に止まっている。じっと蜂を見ていると、蜂は鼻の穴に潜り込んでいく。暫くすると鼻の穴から出てきて、盛んに足を動かしている。二度、三度と同じ事をくり返したが、男は深い眠りに落ちているのか、一向に目を覚ます気配がない。山弥は、蜂が鼻の穴に出入りしても知らぬ顔で眠り込んでいる男の呑気さが、次第に可笑しくなってきた。もし蜂に刺されでもして、鼻が赤く腫れあがるのも可愛そうだと思い、男をゆり起こした。

「何とよう寝ちょったが、鼻ん所はどうもなかったかよ?蜂が飛んじ来ち、お前ん鼻ん穴を掃除しちょったぞ。」と、可笑しさをかみ殺す様にして尋ねた。すると男は、何食わぬ顔つきで、「何?蜂が鼻ん穴入ったち? そげんこたあ ちっとん知らんじ、よう寝ちょった。そげえ言やあ、蜂んせいかも知れんが、とてつもねえいい夢を見たぞ!蜂が俺ん傍へ飛んで来ち、何でん十六山へ行け、黄金がすげえこつ埋まっちょると、告げにやっち来たんだ。そしち、俺にそう告げると、蜂はどこかへ飛んじ行っちしもうた。」と、夢の話をゆっくり話しはじめた。

黄金が埋まっているという話を聞いた途端、山弥は目の色を変えて飛び起き、「こりゃ面白い話じゃ。どうだ、俺にお前がたった今見たという夢、売っちくれんじゃろうか。そんお礼に、ここに残っちょる生姜とふるいはおまえに全部やるが、どうじゃな?」と、頼み込んだ。「どうせ夢んこっちゃ、お前がそれほど頼むんなら売っちゃろう。黄金が出ちくるかどうか、当てには出来んぞ。」と、二つ返事で承知した。

その日から、山弥の黄金堀りが始まった。あちらの峰、こちらの谷と手あたり次第に掘り漁ってみるが、なかなか黄金は掘り当たらない。山弥は食べる事も寝る事も忘れた様に、朝早くから日が西の山に傾いて、辺りが暗くなるまで掘り続けた。商いもその日からぴたりと止めたので、食うや食わずの日が続いた。今では麓の村にいって麦を少々分けてもらい、それを食っては掘り続けた。

ある日、山弥はとうとう黄金を掘り当てた。目も眩むばかりの黄金の山に、山弥は我を忘れて見とれていた。やがて、黄金を手の平に載せ、しっかり握りしめた。山弥の頭の中は、今まで血まみれなって黄金を掘り続けてきた苦労や、考えた事もなかったこれからの豊かな生活が、次から次へと駆け巡っていった。山弥は、黄金を元手に商いを始めた。山弥の財産はみるみる増えていき、二、三年の後には、西国一と言われる程の長者になった。

山弥は、豪華な屋敷を万屋町(今の大分市大手町)に構えた。部屋の中は、今まで誰も見た事のない珍らしい物や立派な物で飾った。天井はギヤマン(ガラス)張りにし、その上に金魚を飼って、下から寝ていても眺められるような贅沢な生活を送っていた。府内城の殿さまも、度々山弥の屋敷を訪ねて、気安く過ごす事が多くなった。

ある日、殿さまと山弥の息子が寝転んで金魚を眺めていた。珍しい金魚を取り寄せたばかりなので、息子は嬉しくて堪らなかった。「殿、ご覧ください。あの目の飛び出たまっ黒い金魚が、出目金でございます。その隣の赤と白の模様のある綺麗なのが、りゅう金でございます。」と寝転んだまま、足で金魚を指しながら、さも得意そうに話していた。

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その時である。殿さまの顔色がさっと青くなった。「無礼者め!足を使って余に説明するとは、不届き千万!」殿さまは床を踏み鳴らして、山弥の家を出て行った。その次の日、山弥一族はみんな捕らえられ、その上「山弥一族は、日頃、殿をも恐れぬ無礼な振舞いが多い。息子の振舞いがその証拠だ。一族七従弟(七人兄弟とそのいとこ)まで死罪にし、山弥の財産は全て召し上げる。」という、厳しいお触れが出された。

あまりのお触れにびっくりした山弥は、「私の息子が殿に大変失礼なことを致しまして、誠に申し訳ございません。お詫びの印としまして、私の屋敷からお城まで千両箱を飛び石に並べて差し上げますので、どうか命だけはお助けください。私の息子には厳しく折檻して、二度とこのような事を起こさない様に致します。」と、必死の覚悟で願い出た。

だが、山弥の願い出の殆どは聞き入れられず、七いとこが四いとこまで死罪と、わずかに軽くなったにすぎなかった。山弥一族は、堀切峠(今の大分市大道峠)で首を刎ねられる事になった。山弥は、これほど必死にお願いしてもお許しにならないのかと殿を恨み、死ぬ間際に「我の後、府内には長者は絶対に出ないであろう。」という言葉を残して、首を刎ねられてしまったという。

鶴崎おどりの囃子に「これもさんやのよいとこせ~」というのがあるが、これは「山弥の四従弟(よいとこ)までが殺された」という意味で、「さんやのどっこい」という囃子は、金鉱石を運ぶときのかけ声だったと言われている。

(編著者 大分県小学校教育研究会国語部会)
(出版権者 株式会社日本標準)

山弥長者ものがたり
 http://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1033040940900/

●守田三弥助  (  ~1647年)

守田三弥助は、山口県(周防)から府内藩主竹中重利に招かれ、高千穂町の土呂久鉱山で財を成し、上方への船商いなどで大富豪となりました。折から府内城や城下町が建設される時代で、短期間に蓄財出来る事業は多岐にわたったのだろう。しかし、持ちつ持たれつの竹中氏が長崎奉行になって失墜すると、後任の日根野吉明は、幕府の鉱山開発の独占政策や鎖国体制の強化を察してか、些細な理由付けで三弥助を処刑してしまった。山弥長者の刑死理由が今日まで諸説あるのも、当時から不明瞭だったからである。

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江戸時代塩九升町は城下町の東端にあり、外掘で仕切られその外堀は山弥長者の船入れ場で、万屋(よろずや)町から胡(えびす)町にかけて広大な山弥長者の屋敷が建っていました。貝原益軒の『豊国紀行』に「日向の銀山にて銀を多く取て大富人と成り、府内に家宅を作る、其の家大にして美麗なり」と紹介されている。

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大分市大手町には、山弥長者屋敷跡という石の柱が建てられています。

ちなみに「塩九升」という地名は、「塩九升の店屋で塩を1斗買って、家に帰って計り直したら、9升しかなかった」という町名伝説?がありましたが、古文書に「勢久世宇」という地名があり、その後、塩田の開発と共に塩供所(しおくしょ)となったのが塩九升の由来らしい。

You Tube 大分の城下町
 https://www.youtube.com/watch?v=sb6BYLomOgU

●金剛宝戒寺

高野山真言宗の寺院。727年行基が聖武天皇の勅を奉じて創建した。元は古国府花園付近に広大な境内があったが、度重なる大分川の氾濫で荒廃していた寺を1307年大友貞宗公(6代)が、現在の上野丘に再建した。大日堂には康俊が完成に20年かけた大日如来座像(国指定重要文化財)以外にも、寺内に不動明王坐像や釈迦如来立像、幼少の聖徳太子立像が安置されている。

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大日如来座像(国指定重要文化財)

また、明国から帰国した雪舟が、1476年金剛宝戒寺の境内に天開図画楼を建て、豊後大野の沈堕の滝(鎮田瀑図)などを描いた。

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雪舟の『鎮田瀑図』は関東大震災で焼失、絵は狩野常信による模写。

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豊後大野市 沈堕の滝

●弥栄(やさか)神社 祇園社

祇園社は奈良時代、岩屋寺の境内(今の円寿寺の東側)に創建。その後、疫病が多発したことから、大友能直(初代)が京都祇園社から分霊して社を再興した。1586年島津氏の侵攻の際焼失したが,1618年現在の地に再建された。

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祇園社の祭礼は大友能直の頃から始まり、府内の商家から大小12基の山鉾が曳き出され、各町内には見物用の桟敷が作られ、京都の祇園会に劣らぬほど盛大であった。山鉾の巡航と共に、祇園社から祇園河原(広瀬橋近く)の御旅所までの神輿渡御があり、三基の神輿が各所を練り歩き、御旅所付近は芝居小屋や露天が立ち並んで大層賑わった。

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山鉾の車輪

明治4年祇園社は弥栄神社と名称変更され、昭和28年6月下旬の集中豪雨で大分川賀来橋付近の堤防が決壊。南大分地区は殆ど浸水し、祇園河原の御旅所も壊れ、木造の舞鶴橋も流失した。お旅所の土地は処分されたので、その後祇園社の跡を残すものはありません。

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昭和28年 舞鶴橋流失

●円寿寺

比叡山天台宗の寺院。 この寺は大友氏の崇敬が厚く、大友貞宗(6代)が1307年に古国府から現在地に移した。本尊は不動明王、府内城主日根野吉明公霊廟や、柿本人麻呂図(県指定有形文化財)六曲屏風などがある。また、境内の日根野吉明公の墓の側に、初瀬井路で人柱になったお初さんのお墓も葬られている。

●元町石仏

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上野丘台地東端の凝灰岩の崖に刻まれた石仏で、昭和9年に国指定史跡となり県南の臼杵石仏と並ぶ大分県を代表する磨崖仏。薬師如来坐像を中央に、左に多聞天立像を挟んで、左右に善膩師(ぜんにし)童子と吉祥天像が、右に不動明王を挟んで、左右に矜羯羅〔こんがら〕と制タ迦〔せいたか〕の二童子が刻まれています。薬師如来坐像は、高さ3Mで、丸彫りに近い厚肉彫りに刻みだされている。

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You Tube 元町石仏
 https://www.youtube.com/watch?v=hcmnzbYAVyo

●岩屋寺石仏

元町石仏の西南約600m、龍ヶ鼻付近の崖にあり、元町石仏同様に凝灰岩質。ここの凝灰岩は特に岩質が荒く、永年の風雨のため腹部から脚部に下る程侵食が甚だしく、輪郭を留める像も少なくない。平安時代後期の作と言われ、当時の優れた仏教美術の技と仏教信仰の厚さが窺える。

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全部で十七体の磨崖仏から構成され、中央に如来坐像(推定)をはさんで、向かって右側には十一面観音菩薩立像など、六像が並びます。向かって左側には、不動明王立像など合わせて十像が掘り出されている。

●伽藍石仏

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「ガランさま」「伽藍大明神」などと呼ばれている杵築神社と、小道を挟んだ向い側の崖に三つの窟龕がある。三つの石窟にある石仏は、鎌倉時代から室町時代の製作と推定される。伽藍石仏は3つの石窟があるが、風化が激しくて見分けられない石仏も多い。右の石窟には、阿弥陀如来坐像を中心に左に勢至菩薩像、右に観音菩薩像(欠失)が彫られています。中央の石窟には、阿弥陀如来像があり、左の石窟には3つの小龕(しょうがん)があるだけで石仏は見当たらない。

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大晦日の夜、杵築神社の境内で素晴らしい『竹灯』が見られます。地元の方々の尽力で年々訪れる方が増え、盛況になっています。貴方も初詣にお出掛けになりませんか?

You Tube 大分の磨崖仏と仏像
 https://www.youtube.com/watch?v=orpI9vCB-Oo

●大国社  印鑰社

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村の鎮守といった佇まいの「インニャクさま」 そう言えば、細木数子さんも有名神社にお参りより、まず自分の住んでいる氏神さまを大切にしなさいと言ってましたよね‥

大国主命を祭神とし、1190年の創建といわれる。地元では古来「インニャクさま」と呼ばれ、インニャクとは「印鑰」で朝廷から赴任した国司が管理する印章や倉庫の鍵にかかわる言葉といいます。かつてこの古国府に国府があったが、廃されたあとも「印鑰」が貴重かつ神聖な宝物として崇拝の対象になったのが、当社の発祥とかかわるのではないかとも考えられます。

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晩秋の銀杏の絨毯、時季は短いけど綺麗ですよ~!

●猿塚

花園地区の大分川土手沿いの道脇に石の祠があります。これは江戸時代、大水の度に氾濫する大分川の土手を改修する時、人柱の代わりに生き埋めにした猿を供養したものです。いつも道の上から見下ろしてばかりで、ごめんなさい。

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リベラル花園マンションの駐車場脇にあります

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黒田官兵衛   (1546年~1604年)

大友義統の豊後上陸、杵築城攻撃、石垣原の戦い、佐賀関の戦い

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You Tube 黒田官兵衛
 https://www.youtube.com/watch?v=gdujungQMLk

●日根野吉明   (1587年~1656年)  

1600年父・高吉が病死で信濃諏訪2万7000石を継ぐ。関ヶ原の戦いでは東軍に、会津征伐では徳川秀忠軍に従軍して宇都宮に赴く。その後、西軍方の信濃上田城主真田昌幸の備えに回った。しかし、1601年祖父の弘就が西軍に属して取り潰されたことや、若年という理由から下野壬生1万2000石に減封された。1614年の大坂の陣では徳川方に従い、功を挙げた。その後、日光東照宮の造営など江戸幕府のために尽力し、それらの忠勤が認められ、豊後府内2万石に加増移封された。

府内藩政では城下内外の工事や寺社の修理、開削事業(初瀬井路)などを積極的に行い、浜の市祇園会を府内の二大祭りとして奨励した。一方、法に厳格であったために、領民からは恐れられたといわれている。『初瀬井路』と『山弥長者』は、日根野吉明公の時代の物語。1638年からは島原の乱鎮圧に従軍、1646年には長崎のキリシタン取締りを命じられた。

1645年嫡男が先立ち、吉明は死の直前、幕府に弟高当の孫を末期養子に願い出たが、当主の年齢が17歳以上50歳未満に限られていた為、吉明の願い出は受け入れられず、1656年吉明の死をもって大名としての日根野氏は断絶した。

●伊能忠敬  (1745年~1818年)

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伊能大図彩色図  国土地理院
 http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/sisak/ino-main.html

忠敬は18歳の時に伊能家に婿養子となり、家業は危機的状態であったが、懸命の働きで約10年間で完全に経営を立て直した。天明の大飢饉では私財をなげうって地域の窮民を救済した。50歳を過ぎて家業を長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を学ぶ為、江戸に出る。

この頃、暦局の関心は「地球の直径はどの位なのか?」という事だった。そこで忠敬は、北極星の高さを二つの地点で観測し、見上げる角度を比較して緯度の差から2地点の距離が分かれば、地球は球体なので外周が割り出せると提案。この2地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師匠の高橋至時が考えたのは、江戸からはるか遠方の蝦夷地までの距離を測ること。幕府の許可を得る為の口実が「地図を作る」だった。

1800年忠敬55歳から測量の為、15年間かけて歩いた距離は40,000km、実に地球1周分。1818年73歳で病没。死後43年後、来訪した英国測量艦隊の艦長が忠敬の地図の一部を見て、「西洋の器具や技術を使わずに、正確に描かれている。こんな地図があるなら、今更測量する必要はない。」と測量を中止してしまった。鎖国状態の日本を未開の文明後進国と決めつけていたが、世界水準の正確な地図を持っている事に驚き、見下すことを改めたという。

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江戸時代後期の1810年、忠敬は豊後地方を測量しました。

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●広瀬久兵衛  (1790年~1871年)   

 《 広瀬橋 》のいわれ

日田の広瀬淡窓の弟。久兵衛は病弱な兄に代わり家業(諸藩御用達・博多屋)を継ぎ、掛屋(現在の銀行)を発展させた。出資する立場ながら新田開発や農業用水などの公共土木事業にも才能を発揮し、日田郡の小ヶ瀬井路、宇佐郡の広瀬井路の開削、筑後川舟運のための中城河岸の設置などに尽くした。宇佐・国東地域にも十ヵ所以上の新田を完成させ、隠居後は1831年の対馬藩田代領(佐賀県鳥栖市)の借財整理を皮切りに、豊後府内藩や福岡藩の財政再建にも尽力した。

1832年広瀬久兵衛は古国府の三福寺を訪れ、各庄屋を集めて藩政改革の趣旨を説明。祇園河原に堤防を築くことを提案し、実施した。『広瀬橋』の名称は、それからの由来とされる。また、久兵衛は府内藩で特産物の青莚の藩営専売制を中心とした改革を成功させ、高い評価を得た。

●広瀬 淡窓  (1782年~1856年)

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広瀬 淡窓は、江戸時代の儒学者・教育者・漢詩人。天領の日田郡堀田村に1805年全寮制の私塾「咸宜園」を創設した。咸宜園は身分を問わず誰でも入塾出来、国内68ケ国中66ケ国から学生が集まった。江戸時代、日本最大級の私塾となり、80年間で学んだ者は約4800人に及んだ。講義は四書五経以外に数学や天文学・医学など様々な分野に渡り、幕末に活躍した大村益次郎や蘭学者の高野長英など多くの人材が輩出した。

You Tube 広瀬 淡窓
 https://www.youtube.com/watch?v=XaWfnU1rAHc

●橋本五郎左衛門   (1636年~1727年)

江戸時代、豊後府内藩の豪商 橋本屋4代目八左衛門の弟の五郎左衛門が、薩摩で目にした琉球イグサに魅せられ,大分での栽培を思いつく。五郎左衛門はイグサの苗を求めて密かに琉球国に渡ろうとしたが、途中で難破して「七島」と呼ばれる琉球領の地に漂着した。ここで領外不出のイグサの苗を盗み、大分に持ち帰り栽培を試みたが,失敗に終わった。数年後、再び琉球に密航し,苗と栽培方法に詳しい者を雇って帰り、十数年の苦心の末,生産に成功した。

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青嶋神社

豊後表は(七島藺−シットウイ)として,府内・速見・杵築一円で栽培され、大分県を代表する特産品となった。明治14年五郎左衛門を称え,西大分のかんたんに小祠を建てられ、産業振興の神として祭られました。後に神社が荒廃したため,大道の商家が協力して現在地(大道浄水場への登り坂の脇)に移して、氏神とされています。

●松平忠直   (1595年~1650年)

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1607年(慶長12年)13歳で父の後を継ぎ第2代福井藩主となり1611年叔父の将軍徳川秀忠の娘勝姫を正室に迎える。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父徳川家康から責められたが、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。

1621年(元和7年)病を理由に江戸への参勤を怠り、翌年には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。1623年(元和9年)将軍秀忠は忠直に隠居を命じた。隠居後は出家して一伯と名乗り、豊後国府内藩へ配流の上、謹慎となった。1650年死去。

●大湯鉄道 (後の久大線)

大正4年古国府出身の小野駿一が大湯鉄道(大分ー小野屋)を開業した。小野駿一は当時、大分銀行頭取・豊州瓦斯・大分県農工銀行・大分セメント・小野汽船社長などを歴任し、大分県実業界のトップリーダーでした。

大湯鉄道の停車駅は、大分市駅➡古国府停留場➡永興停留場➡賀来駅➡平横瀬停留場➡向之原駅➡鬼瀬停留場➡櫟木停留場➡小野屋駅。 大湯線はその後、国鉄が買収し久大線となり、大正12年には湯平まで延長され、昭和9年に大分~久留米間が全面開通しました。

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ちなみに当初、上野の坂下にはトンネルはなく、鉄道の線路は岩屋寺石仏の前を通っていました。時々、切通しの坂(旧国道10号線)を下ってきた大八車が止まりきらずに踏切の遮断機を壊したと、国鉄OBの方にお聞きしました。広瀬橋脇には、弥栄神社のお旅所も見られます。

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古国府トンネル 左の側道は旧大湯線跡

●幸 フク  (1869年~1954年)

呉服商、教育家。 幼くして糸紡ぎ、機織りの技術を習得し、17歳の時自分で織り上げた木綿布100反を行商して歩き、その後三ケ田町で呉服店を開き、明治40年頃には南大分随一の大呉服店に発展させた。大正14年南大分幼稚園設置の基金として1万円を寄付して話題となった。昭和2年女子の実践教育の場「温厚にして堅実な女性の育成」として、南大分永興に城南女学校(現在の福徳学院高等学校)を創設した。

●上田保   (1894年~1980年)

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明治27年大分市畑中に生まれ、明治41年大分中学に入学するが、経済的事由で中退。その後、苦学して27歳の時に弁護士試験に合格。昭和4年に法律案内書「趣味の法律」を出版し、ベストセラーとなる。昭和22年政治・経済界、友人等に推され大分市長選に立候補し、当選。以来、昭和38年まで4期16年間、大分市の戦後の復興に尽力した。彼は在任中、独創的なアイデアで大分市を復興させ、アイデア市長の名で親しまれた。

▲農作物を荒らしていたニホンザルを餌付けし、高崎山自然動物園として観光資源にした。
▲遊歩公園・ジャングル公園・上野墓地公園・若草公園・若竹公園など多くの公園を作り、公園市長とも呼ばれた。
▲大分市と鶴崎市、大分町、大南町、坂ノ市町、大在村との合併。
▲大分市大道と南大分を結ぶ大道トンネルを建設。
▲日豊本線西大分駅付近から大分港へと至る大分港臨港線を設置。
▲大分鉄道管理局(現九州旅客鉄道大分支社)を誘致。

▲市長退任後は大分生態水族館マリーンパレス(現在のうみたまご)を建設。世界初の潮流式回遊水槽を設置し、餌付けショーを行い、見事に成功。開館から7年間、国内で最も入場者数の多い水族館となった。

You Tube 上田保
 https://www.youtube.com/watch?v=z5QR7Nsm_xc

●双葉山定次  (1912年~1968年) 大分県宇佐郡出身
不滅の69連勝、5場所連続全勝優勝、全勝優勝8回、相撲道を極めた大横綱。立ち合いの変化、待ったをせず、相手が立てばいつでも立ち、その相撲に取り組む厳しい姿勢は伝説となっている。

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You Tube 双葉山
 https://www.youtube.com/watch?v=fMLDwn6Wa5s

You Tube 双葉山の69連勝
 https://www.youtube.com/watch?v=2sC6OBedhr8

●稲尾和久  (1937年~2007年) 大分県別府市出身

昭和32年35勝中連続20連勝、昭和33年日本シリーズ3連敗後4連勝でV3、シリーズ7試合中6試合登板、劇的なサヨナラ本塁打! ライオンズファンに『神さま仏さま稲尾さま』と呼ばれました。昭和36年には最多勝利42勝!? ありえへん! こんな凄いピッチャー、もう二度と現れないでしょうね?

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西鉄ライオンズ 奇跡の日本シリーズV3
 http://www.seibulions.jp/expansion/history/lions_classic/33.php

You Tube 波乱万丈 稲尾和久
 https://www.youtube.com/watch?v=6eLgf4t3ZEw

●仏埼で崖崩れ 別大電車が埋没!

昭和36年10月前日からの豪雨。大分から別府に向かう別大電車が、仏埼のカーブで突然ガケ崩れに遭い、大量の土砂に埋まった。学校帰りの学生など乗客31名が亡くなった。

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●富士航空機 着陸失敗 オーバーランして炎上!

昭和39年2月鹿児島空港から42人を乗せた富士航空機が旧大分空港(現大分市西ノ洲)で着陸に失敗。空港東側の裏川の堤防に衝突、堤防を越えて河原に落ちて炎上。20人が死亡、22人が重軽傷を負った。

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富士航空機事故

★★明治~昭和の『大分の風景』★★ みえ記念病院のHPの中の(回想法に役立つ大分の風景)で、明治から昭和時代の大分の地図や写真が掲載されています  
 http://www.miekinen.org/

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