誰にも分かりやすい 《土と肥料と微生物》 の話です

大分☆ラグストーリー

大分舞鶴の全国優勝を知らない あなたへ
ユーミン の《 NO SIDE 》を知ってる あなたへ 

   大分舞鶴高校ラグビー物語 

平成11年に大分舞鶴ラグビー部の応援ホームページを作成。息子たちが卒業後、次期保護者会に引き継いで当時のホームページは閉鎖していました。
大分舞鶴高校ラグビー物語 》は、西日本新聞社刊 「大分舞鶴ラグビー物語」 及び 「大分舞鶴ラグビー30年史」の著者の方のご了解をいただき、抜粋して掲載しました。
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〈ST-1〉  舞鶴ラグビー部 創設 
〈ST-2〉  産みの苦しみ
〈ST-3〉  一つの事件
〈ST-4〉  全国大会初出場
〈ST-5〉  ラグビーの虫
〈ST-6〉  初のベスト8
〈ST-7〉  黒ジャージー
〈ST-8〉  天理に惜敗
〈ST-9〉  快進撃
〈ST-10〉  決勝戦 目黒高校
〈ST-11〉  木下 転出
〈ST-12〉  監督との衝突
〈ST-13〉  準決勝の死闘
〈ST-14〉  全国制覇 成る
〈ST-15〉  屈辱の大敗
〈ST-16〉  失われた物
〈ST-17〉  必死の再建
〈ST-18〉  頭角現した水産
〈ST-19〉  打倒目黒 成らず
〈ST-20〉  母の死
〈ST-21〉  抽選負け
〈ST-22〉  入試に配慮
〈ST-23〉  最後のゴールキック
〈ST-24〉  " NO SIDE "

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〈ST-1〉 舞鶴ラグビー部 創設     (大分舞鶴ラグビー30年史 より)
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昭和26年4月 舞鶴校仮校舎の校長室に 和気良文と安部剛が真面目な顔をして入っていった。「何か用か?」と橋本喬木先生。恐る恐る小さな声で「ラグビー部を創らせて下さい…」「何や?」 大きな声でもう一度繰り返す。「しゃーしー! わかっちょる。」

ラグビー部は創設された。「あんときゃ ちっと怖じかった。」と後日 和気君が語ってくれたが、初代部長の安東薫先生にお尋ねすると、喬木先生はご就任の時からラグビー部の設置は決めておられたという。喬木先生は新校舎に移っても、自宅にはお帰りにならず 校内に寝泊まりされ、顔をあわせて挨拶すると 「お前たちゃー、キナコ餅んごたるのう。」と、汗と泥だらけの我らの姿を評しておられた。

登校時、校門の前に仁王立ちしておられた喬木先生。遅刻してきた生徒は勿論、先生の上にも大きな雷が落ちた。時間があれば授業中の各教室を回られ、居眠りやよそ見している生徒がいると「馬鹿モンが!」とTV の破れ太鼓の進藤英太郎の何百倍の迫力だった。その後、ぼそりと「しゃんとやれよ」と去って行かれた。

〈ST-2〉 産みの苦しみ     (以下 西日本新聞社刊 より)

初代部長の安東薫は 創部から3年間、教務主任という多忙な時間を割いて、徹底的に指導した。特に技術、体力以前の問題として精神面を厳しく説いた。「縁の下の力持ちになれ」「名誉は均等だ」「ラグビーは紳士のスポーツだ」 安東は創部早々の部員たちに懸命にラグビー精神を植え付けた。
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「先生は湯布院の合宿で、早朝マラソンの先頭をいつも突ケツスタイルで走られた。疲れてサボっていると、青竹片手に現れ、タックルせんかー.と追い回された。練習を早めに辞められる炊事当番が 待ち遠しかった」 「湯布院合宿のグラウンドは石ころだらけ。タックルやセービングで全身に生傷が絶えず、ビフテキのように血が滴り落ちて、汗がしみるとひりひりしてたまらない。安東先生に薬を買って欲しいと言うと、そんなものはツバをつけておけばいいの一言でした。」

こうした苦しみを経て、昭和28年舞鶴ラグビー部に 歴史的な第一歩が訪れた。この年の春、東京教育大ラグビー部が来県。舞鶴、上野丘、大分大と合同合宿を行った。初めて本格的なラグビーに触れ、大学生がマンツーマンで手とり足とり基本を教えてくれた。この合宿を機会に「お嬢さんラグビー」と言われていた大分舞鶴のラグビーが大きく変わった。

練習試合後、舞鶴高は全員を家庭科教室に招き、女生徒が作ったカレーライスを振る舞った。その時、諸藤主将は橋本校長から 「卒業後うちに来て ラグビー部を指導してもらえないだろうか」と打診された。これが「諸藤先生はカレーライス1杯で騙されて、大分に来た」と今でも語り継がれているエピソードだ。

昭和28年5月春合宿のしごきに耐えた大分舞鶴は、苦戦しながらも初めて決勝戦に進出し、目標だった上野丘を 6-3で破り、念願の初優勝を果たした。先生からは「お前達は勉強しながら 県一位になったんだから、それだけは誉めちゃる」と言われた。当時は5時間授業に2時間の補習で、冬は30分も練習すれば、暗くなっていた。勉強のために部を辞める者もおり、進学校として宿命的なものだった。

諸藤良行は橋本校長の強い要望で数ある就職先を断り, 翌29年4月大分舞鶴高に赴任し、本格的に指導を始めた。諸藤部長の好指導もあって舞鶴ラグビーは順調な歩みを見せた。新人戦の優勝を機に県下のトップクラスのチームとして育ったが、全国大会への出場はならなかった。

〈ST-3〉 一つの事件

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当時 高校ラグビーは上野丘の全盛時代で、OBの熱の入れようは並大抵でなく、それだけにマナーの悪さも目立った。審判技術も未熟だったため、観衆の汚いヤジが試合の進行を妨げることすらあった。 諸藤はその度に注意したが、すればするほどOB連中の諸藤に対する反感は募った。

「若造のくせに」「よそ者は引っ込んどれ」直接浴びされることは少なかったが、その声は自然と諸藤の耳に入った。「言いたい奴には言わせとけばいい」と、諸藤は一切の陰口を無視した。こうして上野丘OBと諸藤の険悪なムードが高まるうちに 一つの事件が起こった。昭和29年9月23日 県高校ラグビー秋季大会準決勝で、上野丘と舞鶴が対戦した時だった。試合は一進一退、双方とも決め手を欠き 0-0 で引き分け、抽選で舞鶴が勝った。

納まらなかったのが上野丘OBだ。試合後OB紅白戦を予定していた為、 OBが大挙してベンチに陣取っていた。その中でスパイクやジャージーを忘れた数人が 舞鶴選手に「ちょっと貸せ」と用具を奪い始めたのだ。この行為に諸藤は激怒した。「お前らはヤクザか!挨拶もろくに出きんのか!天下の上野丘OBともあろう者が。高校生から黙ってジャージーを取っていいんか! まるでヤクザと同じじゃないか」と大声でタンカを切った諸藤に、若手の上野丘OBが血相を変えてにじり寄り、 舞鶴グラウンドは一触即発の緊迫したムードに包まれた。グラウンドに居合わせた渡辺(上野丘OB)らの取り成しでその場は納まったが、上野丘OBの諸藤への敵対心は決定的になった。

「はっきり言って孤立していました。安東教頭には 君は田舎のやり方がわかってないと言われた。若くて無鉄砲だったからできたことです。」マナーの改善に燃える諸藤は信念を貫き、強気の態度を崩さずに進言を続けた。諸藤の進言はやがて浸透し、徐々にグラウンドでの喫煙や タッチライン沿いをうろつく姿も消えていった。また諸藤はマナーだけでなく、技術的な指導にも労を惜しまなかった。他校に出かけて、スクラムの組み方やタックルのやり方を指導した。

〈ST-4〉 全国大会初出場

昭和31年大分舞鶴は 春先から快進撃を続けていた、金谷(柴田)実の着任で、強力な指導体制が確立。諸藤に1年時から鍛えられていた部員が3年となり、徐々に力を発揮し始めていた。夏合宿は高田高グラウ ンド。猛暑とヤブ蚊に悩まされながら、監督 とOBのしごきに耐えていた。夜は蚊の大群から逃れるため、生徒はひとつしかない蚊帳の中に首だけを入れ、体は毛布にくるまった。「蚊帳の中で寝ることが出来たOB が羨ましかった」その苦しい合宿を乗り越え、彼らは一段と成長した。

昭和31年第36回全国大会で大分舞鶴は 記念すべき第1歩を記した。 県決勝で高田を22−0で下し、東九州予選で宮崎代表に勝ち、全国大会に初出場。「どうせやるなら日本一に」と、ジャージーは全日本の使用する赤と白の縞模様を新調した。橋本校長の作った「しまれ」「がんばれ」「ねばれ」「おしきれ」 の大のぼりも初めて 宮球技場に立ち、エール交換では橋本校長作詞の「ラグビー賛歌」も披露され好評だったが、1回戦で金足農(秋田)に0-15で完封され、 むなしい正月を送らねばならなかった。

〈ST-5〉 ラグビーの虫
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昭和40年4月 木下応韻は大分舞鶴高に着任。全国大会の1回戦ボーイだった同校ラグビー部に、新風を吹き込んだ。「パスワーク一つとっても、それまでやっていたラグビーと全く違った。これがラグビーなのか と目から鱗が落ちる思いだった。」と平岡惟史 (早稲田ー新日鐵八幡ー日新製鋼)は 木下との出会いを語る。

「バックスのポジションからパスの渡し方、走り方、フルバックのライン参加など、木下先生は実際にやってみせてくれた。流れるような動きに見とれながら、少しでも近づきたいと 必死で教わった。とにかく厳しかった。3年間で何千回殴られたか、覚えきれないほど殴られた。」と佐藤秀幸 (早稲田ー新日鐵八幡)は話す。「負けず嫌いで気性が激しい。ことラグビーに関しては とにかく熱心だった。」教え子たちの一致した声だ。

木下は自ら「肥後モッコス」の典型。これと決めたら、多少の障害があろうとも とことんやらなければ 気が済まない。」と言う。 「とにかく頑固ですからね。」と平岡は言う。だが、その頑固さが大分舞鶴を 地方区から全国区にしたのは自他ともに認めるところだ。在任中9年間に  国体優勝2回、同準優勝2回、全国大会準優勝1回、同ベストエイト3回の輝かしい業績を残した。

〈ST-6〉 初のベスト8

昭和41年県内は大分国体一色に塗りつぶされていた。夏休みに入り、全大分チームは群馬県草津に遠征。東京の強豪保善高と合同合宿を行い、地獄の10日間を経て大きく成長した。全大分は国体決勝で秋田市立高に3-14で破れたものの、準優勝。素晴らしい成果だった。

第46回全国高校ラグビー大会は 昭和42年元日に開幕した。主将で超高級校のCTB平岡惟史、快足WTB佐藤秀幸を中心にしたバックスは 全国でもトップクラスで戦力も充実していた。

1回戦は 北海道代表遠軽高を 15-3で快勝。2回戦は 大阪商大付と対戦。平岡の鋭いカットバックを中心に、FW ,BK一体となった攻撃で 18-0と圧倒した。準々決勝の相手は 東京第2代表京王高校。前半15分舞鶴ゴール前のスクラムで京王のゴールイン。フッキングミスで、ボールは逆サイドへ。やり直しかと思われたが、笛は鳴らない。相手フランカーがすかさず ボールを拾って 左隅に倒れ込んだ。

後半早々 PGを決められ 0-6 となったが、すぐに平岡が個人技で守備陣を抜き、独走となった。 誰もがトライと思った瞬間、平岡の手からボールがこぼれた。痛恨のノックオン。「基本を忘れて片手で走ったのが、ノックオンにつながった。 あれ以来ボールを両手で持つことを肝に銘じた」 その後平岡が1トライ奪い猛反撃するが、3-6で惜敗した。

〈ST-7〉 黒ジャージー

昭和46年正月 全国大会初戦に勝った直後だった。柴田実部長が同協会理事 に呼び止められた。「全日本と同じユニフォームなので,今後全国大会で着用するのは 遠慮して欲しい。」「全日本のように強くなろうと真似て作ったのに,あまりに突然で驚いた。」と柴田は言う。しかし、それも大分舞鶴が全国的に強豪校として 認められた証拠でもあった。

「日本一が駄目なら世界一でいこう」木下らが考えた末、決定したのは黒ジャージーに黒パンツ、黒ソックス。それは当時世界最強チームの、オールブラックスのユニフォームだった。

〈ST-8〉 天理に惜敗

昭和46年1月6日 二度目のベスト8進出を果たした大分舞鶴は 天理と対戦した。前半を9-11で折り返し、後半も試合は二転、三転するシーソーゲームとなった。

大分舞鶴は 11分 ラインアウトから右に展開、高田博史 が飛び込み、梶原のゴールも決まって14-11 と再逆転。14分にトライを奪われ同点。20分に天理ゴール前スクラムから ブラインドサイドを攻め、トライ。三たび 17-14 とリードを奪った。時は刻々と過ぎ、あとワンプレー。大分舞鶴の誰もが そう思いながら ノーサイドを待った。時計の針はすでに27分を指し、インジュアリータイムに 入っていた。

プレーが中断した。「終わった!」大分舞鶴の誰もが ノーサイドの笛を期待した。だが、レフェリーはスクラムを命じた。その瞬間、悲鳴にも似たどよめきが スタンドから漏れた。

天理はハーフライン上のスクラムから右オープンに展開。ウイングが縦に抜いて ゴール前40ヤードでラックになり、絶妙のタイミングで左に回す。FBが大分舞鶴のディフェンスラインを突破し、同点トライ。ゴールキックがポストの真ん中をこえた直後に ノーサイドの笛が鳴り響いた。悪夢としか 言いようのない逆転負けだった。

〈ST-9〉 快進撃

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昭和48年春大分舞鶴高校ラグビー部は、早くも日本一の折り紙がついた。「とにかく、あの年のメンバーはすごかった。高校ジャパン級の選手が各ポジションにずらりと並び、非の打ち所がなかった。」

そのメンバーの大半は木下応韻が大分市とその周辺の中学校を回り、学業優秀でいろいろなスポーツで活躍していた生徒をスカウトしてきたものだった。第53回全国高校ラグビー大会 花園ラグビー場に「黒い旋風」が吹き荒れた。全国大会出場14回目の大分舞鶴は、強敵を次々になぎ倒し勝ち進んだ。1回戦國學院久我山を 33-3。2回戦秋田工を 23-14。特に秋田工戦は 序盤の劣勢を跳ね返しての逆転劇だった。3回戦新潟工を 27-3。準決勝の関商工を15-4で下し決勝進出を決めると、そのフィーバーぶりはさらに激しくなった。

周りの騒ぎが少しずつ選手を緊張させていった。さらに悪いことに強豪校との連戦で、けが人が増えていく。中でも大黒柱の中村は右太股の筋肉が切れ、歩けない状態だった。 

〈ST-10〉 決勝戦 目黒高校

目黒との決戦の前夜、最後のミーティングで木下応韻が泣いた。選手にとっては,初めて見る木下の涙だった。「決勝まで来た感激から 不覚にも涙が出てしまった。」

選手が驚き、シーンと静まり返る中で 木下は言った。「目黒みたいなチームに1点もやるな。明日は完璧に勝とう!」このことが逆に選手を緊張させ、中には朝方まで眠れなかった者もいた。昭和49年1月9日 決勝戦のグラウンドに立った選手の顔は 誰もが引きつり、完全に雰囲気にのみ込まれていた。前半 目黒が攻めまくって0-7。 大分舞鶴が敵陣に入ったのは キックオフの3回だけという、考えられない貧攻だった。試合のヤマと見られた後半も 目黒が先手を取った。後半1分から 連続3回のラックを支配し、左中間にトライ、ゴールして 0-13。勝負は決まった。大分舞鶴は8分,22分にトライするが、結局8-19で破れ、初優勝を逃した。

「若かった。とにかく若さがすべてだった。あまりにも完璧を目指しすぎたんです。余裕を持って勝てた相手に、自分の方に余裕がなかった。涙を流して選手を緊張させた上に, 選手起用でもミスを犯した。」木下は、今でも選手に申し訳ないことをした という思いが強い。主将だった中村も「木下先生を日本一の監督にしてやりたかった。」と残念がる。

〈ST-11〉 木下 転出

昭和49年春 大分舞鶴ラグビー部は大きな転機を迎えた。40年春、新卒で着任以来ラグビー部を指導してきた木下応韻が、大分水産に転出したのだ。今年こそ全国制覇をと燃えていた矢先だけに,木下の落胆ぶりはひどかった。木下は大分舞鶴に大きな未練を残し、後ろ髪を引かれる 思いで去った。

木下が去り、新たに監督になるべくOBの三重野建が着任した。突然の辞令に三重野も戸惑ったと言う。「急にやれと言われても 覚悟がいった。はっきり言ってやっていけるかどうか,不安で自信がなかった。」

前年度のチームに比べて一回り小粒になり、チーム力もかなりレベルダウンした。それでも5月の県高校新人大会、6月の高校県体、 九州大会優勝、8月の秋田遠征と誰の目にも順調そうに見えた。

9月7日 国体南九州地区予選で 全大分は1回戦で大勝。が、翌8日の決勝戦で「考えられないようなミスを連発して」全鹿児島に0-19で完敗した。 新チームになって初めてのつまずきだった。

「チームが順調に勝っている時は、多少の不満があっても全てうまくいっているように見える。だけどいったんつまずくと、その不満が一気に噴き出してしまう。」 敗戦を機に チーム内のゴタゴタが続出した。練習中に選手同士が つかみ合いの喧嘩をしたり、なじり合ったり、ついには監督批判に及んだ。「三重野先生の下ではやりたくない。」と 露骨に言う選手も現れた。 

やがて、選手と監督の考え方の違いが真っ向から衝突する”事件”が起こる。大分舞鶴高ラグビー部は、チーム崩壊の危機を迎えることになる。

〈ST-12〉 監督との衝突

「お前たちがランニングパスをするか、俺が監督を辞めるか、どっちかだ」ーー 昭和49年9月、国体南九州地区予選で、あえなく敗戦してから1週間ぐらいたった頃、三重野は監督の指導に反発する選手に選択を迫った。

新体制スタート後、チーム作りは順調に見えた。だが敗戦を機に選手たちは、三重野の指導に対する不満を漏らし始めた。 「木下先生と違う」 選手は知らず知らずのうちに、前任の木下と三重野の指導方法を比べていた。練習試合の前日でも 普段どうりの練習を指示する三重野に、主将の畠本ら3年生部員は 真っ向から反発した。

「練習試合でも、試合は試合です。木下先生の時は、試合前は軽く汗を流すだけの調整練習をやっていた。だからランパスはしません。」それで三重野は「俺の言うことが聞けないのなら、 監督を辞める」と言いだしたのだ。だが、選手たちは、ランパスを始めようとはしなかった。「もう終わりだ!」 三重野は何も言わずに グラウンドを去った。

「どうせポーズだろう。そのうち練習にでてくるさ」 始めは軽く考えていた選手たちだったが、三重野は1週間たっても、2週間過ぎても、グラウンドに現れなかった。その間、部長の柴田実がグラウンドで指導しながら、収拾に乗り出した。「双方の溝は深く、とりわけ三重野先生の 辞める決意は固かった」と、柴田は当時を振り返る。結局柴田が間に立って、主将の畠本茂也、副将の首藤敬三が三重野に謝罪して、”事件”は解決した。

この衝突は互いの不満をぶちまけ、腹を割って話し合うきっかけとなり、結果的にチームがグッとまとまった。この事件をきっかけに みんながもう一度初心に帰り、本来の目標を考え直したのが 結束を生んだ。

誰もが、昨年の屈辱を晴らそうと燃えていた。なかでも主将の畠本の気迫はものすごかった。「とのかく倒れるまで、主将が先頭を切って、練習を続けるので他の選手もさぼる訳にはいかなかった。」

〈ST-13〉 準決勝の死闘

大分舞鶴は1回戦で石巻工と対戦。のびのびと走り回り、84-0 驚異的な得点を上げた。第52回大会で長崎南の74点を上回る大会史上最多得点だった。2回戦でも黒沢尻工を45-7の大差で一蹴し、順調にベスト8に進出した。

「本当にクジ運に恵まれた。準決勝はどこと対戦しようと、ベストコンディションでなければ勝てないと考え、思い切ってケガ人を休ませた」 それでも結果は41-0.沼津工を全く寄せ付けずに準決勝進出。優勝候補の筆頭といわれた秋田工との対戦が決まった。

三重野は起床後、毎朝身体を早く目覚めさせるため、旅館周辺を散歩させた。勝ち進むに連れ、散歩がジョギングに変わった。散歩でいいんだと注意したが、選手たちは自然と足が動くんです。走らせて下さいと言った。

準決勝の後半、秋田工はかさにかかって攻め続け、大分舞鶴を再三ゴール前に釘付けにした。大分舞鶴はピンチを捨て身のタックルでしのぎ、相手キッカーの不調に助けられて、点差は開かなかった。攻め続けながらリードを奪えない秋田工は、次第に焦ってきていた。18-18の同点で迎えた後半20分、大分舞鶴が自力で初めて、敵陣に攻め込んだ。

ラインアウトから左に展開、ライン参加した(15)牧がゲインラインを突破、パスを受けた(11)佐藤が大きくステップを切って、 タックルを振り切りトライ。ゴールキックも決まり、24-18.ノーサイド直前、秋田工にトライを奪われたが、ゴールキックが決まらず、ノーサイド。「大会史上に残る名勝負」を大分舞鶴は、執念で制した。

〈ST-14〉 全国制覇 成る!

昭和50年1月8日夜、花園との決勝戦を翌日に控えた宿舎の畠本主将に、電話が入った。前年まで監督を勤めていた木下からだった。

木下は前年、決勝戦で目黒に敗れた後、雑誌社の依頼で「敗戦記」を雑誌に掲載していた。絶対本命と言われながら何故負けたのか、その敗因を冷静に分析したものだった。木下は電話で、その本を畠本に読んで聞かせた。畠本はひと言、ひと言かみしめながら聞いた。

そして三重野監督を囲んだミーティング。その結論は「攻撃力は負けない。ディフェンス一本に絞って守り勝とう」ということだった。選手に とって、準決勝で優勝候補最右翼の秋田工を下した自信は、大きかった。

決勝戦前半3分、大分舞鶴は風上を利して、ハイパントで敵陣深く攻め込み、相手(15)のノックオンでスクラム。敵陣5M前のスクラムから (10)飯田→(12)笠木→(15)牧が右中間にトライ。GK成功で 6-0。逃げる大分舞鶴、追う花園… 追いつ追われつの熱戦になったが、大分舞鶴は先手先手で試合の主導権を握った。 (前半 10-8)

後半、風下に立った大分舞鶴は、ゴール前に釘付けにされ、防戦一方になった。攻める花園、耐える大分舞鶴。ゴールを背にした大分舞鶴のピンチは、後半17分まで続いた。捨て身のタックル。何本蹴ったか分からないぐらいタッチキックで逃げ続けた。全員が一丸となって得点を許さなかった。

耐えに耐えた大分舞鶴は、後半22分、エネルギーを一気に爆発させ、攻撃に転じた。敵陣22M付近のスクラムから左に展開、(11)佐藤が30M独走してダメ押しのトライ。 14-8、 勝利を決めるトライだった。そして、大歓声の中、ノーサイドの笛が鳴った。ガックリと膝を折る花園フィフティーン。その横で、黒いジャージーが躍り、こぶしを天に突き上げた。

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表彰式の後、歓喜の胴上げが始まり、やがてグラウンドの中央に大きな輪が出来た。選手、コーチ、OB、父母など関係者が肩を組み、ラグビー讃歌の大合唱が始まった。 ♪ 降る雨も我をはばまず、降る雪も我を止めえず 傷つきて戦友倒るとも~ ♪ 創部から24年、全国大会出場15度目にして始めてつかんだ悲願の日本一。大分舞鶴ラグビーにかけた関係者全員で 達成した全国制覇だった。

〈ST-15〉 屈辱の大敗

「去年と同じことをやっていれば、何とかなる」大分舞鶴フィフティーン には、ある程度の余裕があった。BKの7人中、5人が高校全日本合宿に参加するなど、BKの走力、展開力はどこにも負けないという自負があった。

8月上旬、湯布院で恒例の夏合宿を行った。最大のライバルの目黒をはじめ、関商工、浪商、広島工など花園常連校9校が集い、10日間の練習マッチ、合同練習で力と技を競い合った。8月20日から10日間、東北 、東京遠征と強豪校の戦力を探った。

結果は3勝2敗、國學院久我山に大敗するなど、戦力は下降線をたどっていた。9月の国体東九州予選準決勝でも、14-31で宮崎選抜に敗退 、チーム状態はどん底だった。だが、大分舞鶴ラグビー関係者は戦力的に見て、チームの立て直しにそう時間はかからないだろうとみていた。

10月5日、最大のライバル、目黒高を駄ノ原球技場に迎え、16-14 で逆転勝ちし、舞鶴不調の声を吹き飛ばした。12月5日には、オーストラリアの高校選抜チームと大分舞鶴は単独チームで対戦した。全国大会の直前でケガを心配したが、またとない国際試合なので万全の体制で臨んだ。

大分舞鶴は前半、フォワードがスクラムを互角に組み、大健闘。恵まれた体格を生かして、豪快に突進する金髪選手に、各選手は捨て身のタックルで挑んだ。しかし、モール、ラックのうまさは相手が一枚も二枚も上で 、生きた球はなかなか出せず、逆にディフェンスは甘くなり、0-26 で敗れた。だが、試合内容は点差ほどの開きはなく、大分舞鶴の評価は高まった。

だが、そんな選手たちに思わぬ落とし穴が待っていた。最後の調整合宿 で風邪が流行し、数人が高熱を出して寝込んでしまった。全国大会で、大分舞鶴は1回戦、小浜水産を46-0で下し、難なく2回戦進出を決めた。しかし、相変わらず選手の大半が風邪気味の上、(11)佐藤がこの試合で右肩鎖骨を骨折した。大会のヤマと見られた2回戦への出場は、絶望的だった。

昭和51年1月3日大分舞鶴は國學院久我山に、屈辱的な大敗を屈した。開始直後、ラフプレーからPGを決められ、動きが止まってしまった。日本一の展開力を誇ったオープン攻撃は、久我山ディフェンスに完全にコースを読まれ、2本続けてインターセプトされ、独走トライされた。フォワ ードは風邪のため動きが悪く、集散もチグハグだった。

後半は、縦に突っ込んではつぶされるパターンの連続で、逆に次々に久我山にゴールを割られた。結果は 0-34.考えられないような惨敗だった。この1年間、いったい何を練習してきたのか… 選手たちはノーサ イドの笛とともに呆然とグラウンドに立ちつくした。

〈ST-16〉 失われた物

確かにコンディション調整のミスや、(11)佐藤の欠場で本来の攻撃が出来なかったこともあるが、万全のチーム状態で対戦しても、久我山のスピードに付いていけなかっただろう。全国制覇のメンバーが6人残り、今年もやれるというおごりが先に立ち、チーム自体は春から成長していなかった。三重野は、着任当初から感じていた選手たちの「特別意識」を一掃出来ずにいた。

「学校の中で、ラグビー部員は完全に一般生徒の間で浮き上がっていた。俺はラグビー部員だからという甘えが、選手の意識の中に潜在的にあった」。諸藤良行は屈辱的な敗退から3ヶ月後、大分舞鶴ラグビーの再建の切り札として、県教委から 17年ぶりに現場復帰。 諸藤部長、三重野監督体制がスタートした。

諸藤は「選手を支えるスター意識、それはわがままにしか見えなかった。スパイクの手入れ、ジャージーの洗濯は後輩、父母にまかせっきり。平気で授業をさぼり、何よりも勉強をしようとしない。試合の度の豊富な差し入れを当然のことと思うなど、何も かもが驚きだった。」

大分国体を機会に飛躍的に戦力がアップ。全国にその名をとどろかせていく過程で、舞鶴ラグビーはいくつも大切なものを見失っていた。諸藤が学習指導、生活指導に力を入れたのは当然のことだった。「お前たちが、私立や実業系のラグビー部と同じ事をやってどうする。舞鶴ラグビーは、公立進学校のラグビーだからこそ 存在価値があるんだ。部員である前に、まず舞鶴の生徒であれ」。

意識改革が一朝一夕に出来ることではないことは、諸藤自身よく分かっていた。 だが、根気強く言い続けてやらせるしかなかった。勉強時間を作るために、量から質の練習へ切り替えた。「自分のことは自分でやる」ことを徹底させ、夜間まで下級生をしごく練習も廃止した。それで勝てるチームを育てられるか不安があったが、やるしかなかった。諸藤は授業についていけない部員に、個人指導をしてもらうため、各教科の先生に特別授業を頼み込んだ。

「武があっても文がなければ、選手として行き詰まった時にダメになってしまう。学びながらスポーツに取り組み、進学校のスポーツのリーダーシップを取っているというプライドだけは持っていて欲しかった」この諸藤イズムが浸透するには、まだ時間が必要だった。

〈ST-17〉 必死の再建

「強い舞鶴ラグビーの復活と文武両道の確立」 諸藤が目指す真の舞鶴ラガーづくりの道程は、決して平坦なものではなかった。「あの年の春、今年はどこまでやれるか、全く予想が立たなかった。選手層が薄く、3年生13人(内5人は途中入部)2年生5人の陣容。ケガ人が出ると、1年生を使わなければならない有様だった」。

大分舞鶴は新チーム最初の高校県体を制し、九州大会に臨んだ。予想通り「打倒舞鶴」に燃える他県勢に、大分舞鶴は苦戦の連続だった。「力が接近していることは分かっていたが、本当にヒヤヒヤの勝利。ただ、劣勢の中で、一瞬のチャンスを得点に結びつける集中力の差が上回った」。選手たちには、九州では何がなんでも負けられないという意地があった。フィフティーンは、その意地を決勝戦で爆発させた。

胴上げもなければ、涙もない優勝だった。「九州一といっても、少しもうれしくないです。とにかく勝ってホッとしました」。と松尾は言う。前期の目標だった5連覇を達成した大分舞鶴は、休む間もなく、国体、全国大会に向かって、練習が始まった。

恒例の湯布院合宿で、大分舞鶴は強豪校に、ボロボロに負け続けた。選手たちは続々と集まる OBの厳しい視線の中で、練習マッチと合同練習に明け暮れ、暗くなってからは、OBとのマンツーマン練習で鍛えられた。苦しい夏合宿を乗りきり、大分舞鶴の戦力は飛躍的にアップした。

昭和52年正月、全国大会1回戦で名古屋工を 30-0。2回戦は加治木工。数少ないチャンスをものにして7-0 で辛勝。準々決勝の相模台工は後半、追い込まれたが、19-10 で逃げ切りベスト4。

準決勝の相手は優勝候補の筆頭、目黒高。前半7分、?金子が25M独走し、トライ。 いったん同点にされたが、金子がPGを決めて、前半を7-4でリードした。 だが、地力に勝る目黒は後半1分、パントをチャージし、逆転トライ。後半は目黒の鋭い動きに圧倒され、チャンスらしいチャンスもなかった。終了直前金子がPGを決め、1トライ差に詰めよったが、そこでノーサイド。10-14。再建にかけた大分舞鶴の一年が終わった。

〈ST-18〉 頭角現した水産

昭和54年3月13日、1年生部員の河合伸一が、静かに息を引き取った。16歳だった。「黒いジャージーを着て、花園で試合がしたかった」と死の直前まで言い続けていた。腎臓ガンだった。「10月の練習で鎖骨を折って入院、その後二度とグラウンドに立つことはなかった。明るくて、とってもいい奴だったのに…」

葬儀の日、部員は「ラグビー讃歌」を合唱し、棺に黒いジャージーを納めた。主将の安藤和宏は霊前で全国制覇を誓った。「黒いジャージーを着て、さっそうと走り回る姿を夢見て死んだ河合には、それが一番の供養だと思った」

2月に福岡で開かれた第1回全九州高校ラグビー新人大会で、高鍋、筑紫丘、大口の他県勢を全く寄せ付けずに圧勝、ケタ違いのパワーを見せた。その原動力は、「大分舞鶴ラグビー史上最強のフォワード」だった。バックスも俊足ぞろいで穴がなかった。上級生が少なかったため、1年生の時から一人前の戦力として鍛えられ、試合経験も豊富だったのが強みだった。

しかし、大分舞鶴の前に大きく立ちはだかったのは関東や東北の強豪ではなく、かって大分舞鶴を全国トップレベルの強豪校に育て上げた、木下応韻率いる大分水産だった。昭和49年春、木下は大分水産に転任して以来、運動能力の優れた中学生を県内から集め、「打倒大分舞鶴」を目指していた。目黒や秋田工よりも大分水産の方が怖かった。水産さえ破れば、他に九州には敵はいなかった。

9月30日、県高校ラグビー秋季大会決勝戦。台風の影響で横殴りの激しい雨が降り続き、泥沼と化した駄ノ原球技場で、大型フォワード同士が激しくぶつかり合った。

大分舞鶴は、水産の相手陣深く蹴りこむパントと、フォワード陣の突進でやや押され気味だった。後半4分スクラムから出たボールを水産のSHが中央突破、FLがポストわきに飛び込み、先制トライ。後半6分にも左隅にトライを奪われた。10点を先行された大分舞鶴も、負けじとキック&ラッシュで攻め込んだ。水産ディフェンスをゴール前にクギ付けにし、攻め続けたが、一度もゴールを割れず、ノーサイド。

「気迫負けだった」打倒大分舞鶴を果たし、狂喜する大分水産フィフティーンを横目に、大分舞鶴フィフティーンはがっくりとうなだれていた。

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〈ST-19〉 打倒目黒 成らず

秋季大会での敗戦は、本番を間近に控えていただけに、関係者のショックは大きかった。部長の諸藤は、涙を流しながら怒鳴った。「こんな無様な試合は見たことがない。明日からは、雨が降っても練習だ」。 

それまでの大分舞鶴は、雨の日は体育館で軽い筋肉トレーニング程度だった。この敗戦を契機に、雨の日も泥んこになっての猛練習が始まった。その日以来、全員の目の色が変わった。舞鶴危うしの危機感が、選手の闘志に火を付けた。

11月25日全国大会県予選決勝戦、駄ノ原球技場は5000人の観衆に埋め尽くされた。前半11分、中央スクラムから出たボールを(12)山下が相手マークを充分引きつけ、(14)植田に絶妙のパス。植田は俊足を生かして40M独走し、トライ。GKも決まり、6-0 。大分舞鶴は、先取点で試合の主導権を握った。

後半6分、ゴール前のラインアウトで、(4)金丸が取ったボールをそのまま持ち込み、10-0。後半11分、ゴール前20Mのスクラムから右に左に揺さぶり、最後は(11)浜本が右中間にトライ。ゴールも決まり、16-0、決定的なリードを奪った。最後になって、7点を奪われたが、完璧に近い試合内容で、全国大会出場を決めた。

「目標は優勝」宿敵水産を下したフィフティーンの次の目標は、二度目の全国制覇だった。チーム結成以来、一度も押し負けたことのない重量フォワード。ラインアウトも190cmの金丸を中心に抜群の強さを誇り、俊足揃いのバックスと、戦力はどの強豪校にも、ひけをとらなかった。

大分舞鶴フィフティーンは、河合の遺影を胸に全国大会に乗り込んだ。ケガ人もなく、万全の仕上がりをみせた大分舞鶴は、1回戦名古屋工、2回戦清水南を破り、順当にベスト8に勝ち進んだ。準々決勝は、シード校同士の激突となった。秋田工と白熱した試合を展開した。前半リードを許したが、後半地力を発揮して22-13で逆転勝ちした。

準決勝の相手は試合巧者の目黒。グラウンドは、前日から降り続いた雨で泥沼状態だった。「試合経験や駆け引きの巧さで劣ることは分かっていた。でも、フォワードで負けるとは思わなかった」。一度も押し負けたことがないスクラムで押され、モール、ラックも大半を支配された。バックスのタックルも思うように決まらず、最後まで試合の流れを変えることが出来ないまま、ノーサイドの笛が鳴った。3-19。大分舞鶴フィフティーンは、呆然とグラウンドに立ちつくした。

「完敗だった。決してぬかるんだグラウンドのせいじゃない。力の差です。河合のためにも、どうしても金メダルが欲しか った。それに目黒を倒せなかったことが、最も心残りだ」と、安藤は言う。

大分舞鶴は49年の決勝、52年の準決勝、そしてこの試合と3度、目黒と対戦して全て敗れた。全国大会で、一度も目黒に勝てなかったのが心残りだと、OBや関係者が口をそろえる。

何故、打倒目黒にこだわるのか? 元監督の木下応韻が言う。「目黒は素質のある選手を24時間管理し、1年間ラグビー漬けにして徹底的に鍛えた上に、年間200近い試合をこなす。大分舞鶴には絶対まねの出来ないことだ。だからこそ、大分舞鶴のラグビーで、目黒を倒したかった」。その悲願はついに達成されないまま、目黒は梅木恒明監督が去り、全国大会に姿を見せなくなった。

〈ST-20〉 母の死

「すぐ戻ってくるから、待っていてくれ」SOの安藤はそう言って、一人花園ラグビー場を去った。昭和55年12月30日、全国大会2回戦で苦戦の末、東海大相模を下した直後のことだった。「すぐに大分に帰れ」との三重野の声に、安藤はすべてを悟った。来るべき時がきた。

安藤の母エイ子は、胃ガンと闘っていた。安藤は花園に出かける直前、病室の母を見舞い、これが最後になるかもしれないと、別れて来ていた。「先生はすぐに帰れとしか、言わなかった。だから死んだのか危篤状態なのか、分からないまま飛行機に乗った。覚悟は出来ているつもりだったが、自宅前に並んでいる花輪を見て、無性に悲しくなった」。

訃報が届いたのは、同日午前十時、東海大相模のキックオフの笛が鳴り響いた直後だった。諸藤と三重野は、本人のためにもと、訃報を安藤に知らせずプレーを続けさせた。だが、安藤以外の部員は、ハーフタイムに安藤の母の死を知らされていた。

「ハーフタイムの輪の中から、首藤先生が安藤を連れだして作戦を伝えている間に、三重野先生が、元巳の母が死んだとポツリと言った。一瞬の沈黙の後、誰かがこれで負けたら、元巳が可愛そうだと言った」

試合は接戦だった。シード校並の力を持つ東海大相模の強い当たりと早い出足に苦しみ、前半は9-4。辛うじてリードしていた。「あれで全員が燃えた。この試合は何がなんでも負けられないと気持ちが一つになった。僕らのチームは、結束力の強さでは一番だったと自負しています」。 フィフティーンは、一丸となって二回戦を突破した。

元日の三回戦は、SHの神野がSOに回り、控えの伏野がSHに入った。「元巳が帰って来る前に負けたら、元巳に合わせる顔がない」井口主将の呼びかけにフィフティーンは燃えた。スクラムを下から突き上げ、モール、ラックも鋭い出足で、熊本工につけ入る隙を与えなかった。結果は66-4と大勝だった。

「みんなで安藤のお母さんの弔い合戦だと燃えたんです」。その翌日安藤が再び大阪入り、戦列に復帰した。「母の葬儀の後、兄やおじさんたちが、また戦ってこいと送り出してくれました」。安藤はみんなと顔を合わせた時、何と言えば良いのか分からなかった。みんなも同じ思いだった。しかし、ひと言「迷惑かけたな」で、すべて分かり合えた。

1月3日準々決勝、フィフティーンは悲しみを振り払うように、猛ファイトで劣勢を伝えられた新田戦に立ち向かった。素晴らしい動きで、新田の反撃を封じた。28-4.。完璧に近い出来で、3年連続ベスト4進出を決めた。

準決勝の相手は、春の招待試合で大敗した大工大高だった。「一戦一戦成長し、春よりかなり戦力アップしていたし、勢いがあったので、あわよくばという気持ちがあった」。が、地力の差はどうすることも出来なかった。前半(12)長野が負傷、退場するというアクシデントも重なり、反撃の糸口すらつかめないまま、60分が終わった。「情けなくて涙も出なかった」 0-37のスコアは、今も恵藤の脳裏から消えないと言う。

進学校、しかも1年ごとに選手が入れ替わる高校スポーツで、3年連続3位は賞賛に値する。「選手たちは、本当によくやったと思う」 諸藤にとっても、最も印象深い教え子たちだったと言う。

〈ST-21〉 抽選負け

ロッカールームの中で、時間が止まっていた。カツカツと響くスパイクの音、時折漏れる嗚咽、ロッカールームは重苦しい空気に包まれていた。そして60分の激闘を終えたばかりのフィフティーンの顔は引きつり、うつむいたまま、運命の瞬間を待っていた。

昭和58年1月3日、大分舞鶴は全国大会準々決勝で秋田工と対戦、10-10のままノーサイドを迎えた。ラグビーには延長戦もなければ、サッカーのようにPK合戦もない。トーナメント戦の場合、勝敗の判定は抽選にゆだねられる。

主将の浜本が抽選に向かい、大会役員、レフェリーの前で封筒を選び、仲間の待つロッカールームに帰った。その後、しばらく結果待ちの時間は続いた。いっこくも早く結果を知りたい選手たちにとって、それは長い空白の時間だった。

「とにかく長く感じた。大会役員が結果を知らせに来ることになっていたが、なかなか現れなかった。目を閉じて気持ちを落ち着かせようとしたら、苦しかった3年間が走馬燈のように頭をよぎった」

遅くまで残ってやったボール磨き、倒れそうになった1年の夏合宿、2年の時、全国大会初戦で敗れ、帰りのフェリーの甲板で泣いたこと。久保は3年の夏、高校全日本の一員としてカナダ遠征したが、不思議に苦しかったことばかりが、次々と頭の中に浮かんでは消えたという。

〈ST-22〉 入試に配慮

昭和59年1月5日、全国大会準決勝戦。 大分舞鶴は9年ぶり3度目の決勝進出をかけて大津と対戦した。この試合に負ければ、3年間のラグビー生活は終わる。だが福浦はたとえ勝っても、高校最後の試合になる筈だった。

福浦は、この年の春から開校される全国初の国立体育大の鹿屋体育大への推薦入学を、希望していた。その2次試験は、全国大会決勝戦の日と重なっていた。福浦は1次試験にパスした後、三重野監督に相談に行った。福浦自身今年の戦力や組み合わせから、決勝進出はまず不可能だろうと考えていた。相談はもしもの時に迷わないためだった。

三重野は「試合も大切だが、君の将来を決める進路の方がもっと大切だ。もし決勝に進出しても、受験には行け」と励ました。全国大会は第6シード。周囲の期待も、あまり大きくなかった。「目標はベスト4」。 三重野や選手たちも、そう言っていた。準々決勝で対戦が予想される國學院久我山(前年度優勝校)がヤマと見ていたからだ。

1回戦は下伊那農を38-3、2回戦は新田を8-0 と順調にベスト8に進出したが、満足できる勝ち方ではなかった。テレビ解説者も「今年の大分舞鶴は、お嬢さんラグビーで勝ち進んでいる」と酷評した。

3回戦、大分舞鶴は徹底したハイパント攻撃で、國學院久我山の出足を鈍らせた。逆に大分舞鶴のFWは、鋭い出足でリズムに乗った。9-9 の同点で迎えた後半4分、相手ゴール前10Mのラインアウトから、左オープンに展開、?森迫から?田辺に継いでトライ。その後、福浦が2PGを決めて、6点追加。守っては、低いタックルで久我山の反撃を7点に抑え、快勝した。見事な勝ちっぷりだった。

準決勝の相手は、湯布院合宿仲間の新鋭、大津だった。大津は同じ進学校の大分舞鶴を目標に、毎年湯布院で大分舞鶴の胸を借り、着実に力をつけていた。その大津は、ノーシードながら強豪校を次々に打ち破り、快進撃を続けていた。しかも、大分舞鶴は春の練習試合で、1勝2敗と負け越しており、決して楽な相手ではなかった。

試合は大津ペースで進んだ。モール、ラックの7割方を支配されたが、大分舞鶴は耐えに耐えた。「3年間のすべてをあの試合にかけた。絶対にトライさせないと全神経を集中した」 主力選手を徹底的にマークする作戦が成功し、大津のサイド攻撃を封じ、ノートライに抑えた。逆に大分舞鶴は、数少ないチャンスを確実に点に結びつけ、13-6 で勝った。

決勝進出を決めた喜びに湧くロッカールームで、福浦は一人、帰り支度を急いでいた。「PG2本決めて勝利に貢献できたし、大津に春の借りを返す事が出来た。思い残すことはありません」。福浦は「試験、頑張れよ」の仲間の声を背に花園を後にした。

新聞やテレビは、準決勝の結果とともに、決勝戦を前に福浦が一人、鹿児島の鹿屋に向かったことを報道した。その頃、鹿屋体育大には、全国のラグビーファンから何とか出場させてほしい との電話が殺到していた。大分舞鶴の佐藤校長も特別の配慮をしてもらえないだろうかと、打診していた。

鹿屋体大は翌6日朝、緊急に入試実施委員会を招集し、対策を話し合った。6日午前10時半、大分舞鶴の宿舎に朗報が届いた。「特別処置として、福浦君だけ早朝に入試を行い、午後からの決勝戦に出場できるようにしました」。この朗報に、宿舎は沸きに沸いた。

「受験も出来て、試合にも出場できるとは…。出来れば何とかならないかと考えていたが、まさかの希望が実現し、大学側の配慮に頭が下がります」と、佐藤校長も目頭を熱くした。「あの時の感激は、生涯忘れることができません」と福浦は言う。

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〈ST-23〉 最後のゴールキック

昭和59年1月7日、第63回全国大会決勝戦の相手は、過去4回優勝の天理。この大会は、全国的なレベルアップで、各チームの実力が接近した「戦国大会」にふさわしい、力のこもった決勝戦となった。

前半10分、舞鶴陣25Mのスクラムを回され、オフサイド。PGを決められた。 (0-3)
前半14分、舞鶴のラインアウトのロングスローを、天理(12)古川がキャッチ、(11)星野にとばし、そのまま左隅にトライ。 (0-9)
前半17分、舞鶴のオフサイドでPGを決められ、瞬く間に12点を失った。(0-12)

しかし、ここから舞鶴は猛然と反撃に出た。前半27分、天理のクロスパントを相手陣10M付近で(14)井上がキャッチ、(13)森迫→(11)田辺が左中間に切れ込み、(5)氷室→(2)上尾がトライ。(6-12)

後半に入って舞鶴はすっかりペースを取り戻した。後半4分相手陣15Mのラインアウトから、(10)福井→(13)森迫から(7)司農にリターン。(12)松本→(11)田辺がいったん左に回りマークをはずし、鋭角にスワープして中央突破、ゴール下に持ち込み、ついに同点に持ち込んだ。(12-12)

この後、激しい攻防を展開したが、舞鶴は攻撃チャンスに反則を犯し、どうしても得点に結び付けられなかった。後半22分、舞鶴22Mラインのスクラムから、天理の(10)後藤に中央に切り込まれ、左中間にトライ。そして、インジュアリータイム。(12-18)

時計の針はすでに試合時間の30分を過ぎ、34分を指していた。大分舞鶴が、天理陣深く攻め込んでラインアウト。最後のチャンスと思われた、しかし、投げ入れたボールはノットストレートの反則。天理ボールのスクラムに変わった。得点は12-18。大分舞鶴の敗色は濃厚だった。

このプレーが途切れたら、ノーサイドの笛が鳴る。その切羽詰まった状況で、奇跡が起こった。天理陣内 5Mのラックから出たボールを、天理の(11)森山がミスキック。転々と転がったボールを、(8)川上が拾い、左中間に倒れ込んだ。

スタンドが総立ちになった。川上の奇跡とも言えるトライは、花園ラグビー場を興奮の渦に巻き込んだ。16-18 。ゴールキックが決まれば、同点。第27回大会(昭和23年)以来の、36年ぶりの両者優勝という、劇的な一瞬を迎えたのだ。

大分舞鶴のプレースキッカーは、主将の福浦。福浦は川上からボールを受け取ると,慎重にセットした。場内の視線は全て、福浦の一挙手一投足にそそがれていた。場所はゴールポストに向かって、左40度の位置。普段の福浦にとっては、決して難しいキックではなかった。

「あの緊迫した場面で高校生に決めろと言うには、あまりにも酷なポジションだった。入ってくれと祈りにも似た願いはあったが、あれは入らないと思った」。スタンドの三重野は、冷静に見ていた。

「冷静になれ。いつもと同じように蹴ればいい」。福浦は、何度も自分自身に言い聞かせた。「思いっきり蹴れよ。はずしたっていいんだから」と、(14)井上が駆け寄りささやいた。福浦以外のフィフティーンは、 祈りながらじっと見守っていた。

福浦はゴールポストとボールを交互に見やりながら、走り出した。次の瞬間、宙に舞い上がったボールは、応援席のため息とともに、左にそれた。同時にノーサイドの笛が鳴った。白いジャージーの天理が万歳しながら跳びはね、黒いジャージーの福浦がガックリと肩を落とし、はっきりと明暗を分けた。田辺が駆け寄り、慰めの声を掛けた。福浦の顔に涙があふれ、三重野の胸で泣き崩れた。

閉会式で児玉毎日新聞大阪代表が「優勝旗が2本欲しい」と両チームの健闘をたたえたほどの、素晴らしい試合だった。

noside

〈ST-24〉 " NO SIDE "

彼は目を閉じて
枯れた芝生の匂い
深く吸った
長いリーグ戦
締めくくるキックは
ゴールをそれた

肩を落として 土をはらった
ゆるやかな冬の日の黄昏に
彼はもう二度と
かぐことのない風
深く吸った

何をゴールに決めて
何を犠牲にしたの
誰も知らず

歓声よりも長く
興奮よりも速く
走ろうとしていた あなたを
少しでも分かりたいから

人々がみんな 立ち去っても私
ここにいるわ

同じゼッケン 誰かがつけて
また次のシーズンを かけていく

人々がみんな 立ち去っても私
ここにいるわ

シンガーソングライターの松任谷由実さんは、
この試合に感動し、名曲《 NO SIDE 》を作った。

You Tube ノーサイド
http://www.youtube.com/watch?v=vGbx6iAMoUY
You Tube ユーミン 国立競技場でノーサイドを唄う
http://www.youtube.com/watch?v=OeTdyTi9a7g
You Tube NHK  ノーサイドから30年
https://www.youtube.com/watch?v=-gJJ82pi0kU

2012年12月1日 朝日新聞朝刊「be」の1面と2面に、松任谷由美さんの《 NO SIDE 》作曲時のエピソードが掲載されました。
大分舞鶴の全国優勝当時や、天理との決勝戦を知る人はごく僅かです。ラグビーを愛する若い人たちにも、当時のことを知って頂きたくホームページにアップしました。

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